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日本の大地で培われて来た日本人の感性を原点とするデザイン創造集団


by j-sense
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続き1/関西無常文化総合研究所

日本的なるもの4 

 関西大震災では、結局五千人を超える死者が出た。冥福を祈ると共に、被災地の一早い復興を願ってやまない。 
 その震災の大騒動にまぎれて、先日、神奈川県逗子市で一人の哲学者が亡くなった。西田幾多郎の最後の高弟、下村寅太郎である。享年92歳。老衰による死であったとのこと。世の中の大騒動をよそに、静かな大往生である。 
 下村寅太郎にはいくつかの顔がある。まず一つは、数理哲学者としての顔。元来、彼は数学者で哲学者であるライプニッツの研究が専門である。日本のライプニッツ研究は彼から始まり、彼を越える仕事を残した者はいない。現在刊行中のライプニッツ全集の監修を務めていたはずであるが・・・ 
 その次に、西田幾多郎の弟子としての顔。岩波文庫に収められている『善の研究』の解説は下村によるものである。彼は西田哲学に、西洋哲学の焼き直しではない、唯一、日本独自の哲学の姿を見てとっていた。西田の死後、西田哲学は西谷啓治によって宗教学の方向を強めていったが、私には数理的な立場に踏みとどまっている下村の方が健全であるように思われて仕方がない。 
 次に、優れたヨーロッパ研究家としての顔。『レオナルド・ダ・ヴィンチ』『アッシジの聖フランシス』『ルネッサンス的人間像』など、一般読書界にも広く知られる著書を残している。私自身、彼の著書がなければ、アッシジの小さき花に出会うことがなかった。彼はヨーロッパを普遍的な確固たるものとしてとらえるのではなく、時代的な特殊性としてとらえていた。したがって、膨大な資料を駆使しながら、時代を生き抜く人々を描き出すその筆致は、さながら歴史家のようである。特にルネサンス前後にその興味を注いでいたのは、その仕事を見ればよくわかる。彼はヨーロッパ近代が抱える重要な問題の分水嶺がルネサンスにあることを読み取っていたのである。 
 そして最後に、シンポジウム「近代の超克」出席者としての顔。昭和17年、雑誌『文学界』の呼びかけにより、「文学界」グループ、日本浪漫派、京都学派の三派から13人の知識人たちが集い、大東亜戦争の思想的意義をめぐって討論された。 
 下村も京都学派として、西谷啓治や鈴木成高などと共に、小林秀雄、河上徹太郎、亀井勝一郎等との討論に参加したのである。よく知られるように、このシンポジウムは伝説的に悪名高いものであり、戦後、何度も大東亜共栄の理論づけをしたとしてヤリ玉にあげられてきた。70年代以降、その内包する問題意識の批判的継承が唱えられ始め、一概に否定しきれないが、戦中、戦時イデオロギーとして利用されてきた事実は覆い隠せない。しかし、そのシンポジウムにおける議論たるや、何か確固たる指針を示すことなく、ヨーロッパ近代を日本原理によって乗り越えねばならない、と繰り返すのみであり、散漫で発展的とは言い難いものである。 
 こうしたシンポジウムの中で、唯一、ヨーロッパ近代が抱える科学の問題をとらえることで「近代の超克」の本質を把握していたのが、下村であった。彼は、言語や論議による論証性を旨とする古代ギリシアの科学と区別して、近代科学が実験的方法による実証性を旨とすることを指摘する。そして、その実験的方法がいわゆる魔術の精神と同一のものであることをえぐり出して見せたのだ。「自然を拷問して口を割らせる。」下村は近代科学を特徴づけてこう言ってのけたのである。こうした実験的方法を生み出す近代精神を問題にせねばならぬ、これが彼の主張であった。 
 ところが、彼の主張はたちまち横に置かれ、シンポジウムは空論を極め、その後、二度と近代科学の問題は真正面に考えられることなく戦後を迎えてしまった。むろん、戦後も科学の問題は据え置きのままであった。このことは日本思想の近代的弱点であろう。近年、ようやく日本でも近代科学の問題が議論されるようになってきたのだが。 
 こうしてみてくると、彼はヨーロッパを根本から理解しようとした人であることがわかる。そして、それは日本が明治以降、その内部に抱えることになった「近代性」をどう処理していくか、というところにつながっている。今の我々には非常に刺激的なことではないか。また一つ、大きな先達を失ってしまったようだ・・・・・ 
 

日本的なるもの5

 今年に入ってからというもの、仕事や雑事に追い回されていたせいか、このところ「隠居」というものに憧れを抱いている。お昼近くに目を覚まし、日にあたりながら縁側で庭をながめ、たまに庭をいじる。夜は夜で、適当な肴で酒をなめ、三味をチリトテチン。夜の淵に酩酊の末、入滅。この生産性のなさがなんともいえない。 
 「隠居」といっても、この社会の通念上では、年を喰えば誰でもいやがおうにも隠居とみなされる。隠居=じじ・ばばなのである。しかし、私がここで考えているのは「若隠居」。30にも満たないガキが何をいうか、と思われるだろうが、私自身、今すぐにでも隠居したいのである。隠居に年齢は関係ないのだ。 
 そこで、若隠居三年目を迎えた杉浦日向子女史が推薦する若隠居のお手本、『花暦八笑人』をひもといてみた。これに出てくる若隠居の名は佐次郎という。彼は名のある大店の長男として生まれたのだが、「生まれついての呑太郎、年中続く夕部け(二日酔いのこと)に、うくる家業もうるさしと、弟右之助に相続させ、おのれは隠居の身となりて、心のままに不忍の、池のほとりに寓居」といったあんばいである。そして、その佐次郎のもとに集まる7人の呑助どもと季節ごとの茶番を繰り広げる。特に、春の花見での茶番は「花見の仇討」という落語としても有名である。 
 とにかく、彼らは世の益にならない、本当にくだらない茶番に命を賭ける。「花見の仇討」では、花見の場で仇討の茶番を仕掛けるつもりが、勘違いして助太刀をかって出た武士に切り殺されかけたほどである。そこには殺されかけた恐怖よりも無意味な茶番のスラップスティック性が前面に出されている。ここに太平の世、刺激の少なかった江戸の余裕やおおらかさがある。 
 このおおらかさの象徴のような佐次郎は、いわば江戸という都市に住む有閑人。加えて、作者の滝亭鯉丈も江戸中期の旗本の婿養子、立派な有閑人である。つまり、どうしてもやらねばならぬ公務もなく、その日の暇を物臭に、億劫がってくらしていたのだ。 
 私は以前より、この物臭、ぐうたらが日本を特徴づけるものの一つに数えられるのではないかと考えていた。もちろん、世界的にみれば、樽の中で気ままに暮らしたディオゲネスや、自らの庭園で仲間と共に静かな悦楽を求めたエピクロスがいる。東洋にも仏教思想や老荘思想のようなある種の「ぐうたら哲学」がある。日本的ぐうたらもこの東洋的ぐうたら思想の影響を多少なりとも受けているだろう。しかし、そうした思想的影響を受け入れる基盤として、日本人の生活環境が考慮されねばなるまい。それは都市の円熟ということと深く関係しているのである。 
 『八笑人』が書かれた文政年間は、江戸という都市が経済的に整備され、情報の中心として機能し、都市として完成を極めていた。そうした都市では居・食・住が苦もなく身の回りから手に入り、今まで生きるために費やされていた生産の時間が余ってくる。都市で生活している限り、多少ゴロゴロとぐうたらをしていても、まず死ぬことがないのである。だからこそ、佐次郎は思い切った茶番をうてたのだろうし、落語に出てくるような留さん、熊さんなども物臭に暮らせたのだろう。 
 これは江戸時代に限ったことではない。室町期に「物臭太郎」というお伽草紙があるが、これも室町期に京都という都市が円熟を迎えていたことと深く関係している。谷崎潤一郎が推察するように、当時の零落した公卿が自分のぐうたらな生活を暇つぶしに書いたと考えられる。 
 今、日本は全国総都市化している。日本という国の隅々までが都市化しようとしているのだ。バブル崩壊後の地方を基盤とした経済活性、マルチメディアの整備による情報流通。江戸だ、京だ、大坂だ、という区別なく、日本人はどこにいても都市生活者である。この日本という都市の円熟がある意味楽しみである。なぜなら、その円熟と共に私も「隠居」したいからだ。しかし、その前に私自身の先立つものが・・・・・・・・

日本的なるもの6

 日本という国は何故「日本」という国なのだろう。「日本的なるもの」と題しておきながら、今までこの「日本」ということを明かにしておかなかったようである。日本の社会や文化を考えていくにあたって、そのことを示しえないのでは、論考自体に意味がない。今回その反省をもって、改めて「日本」ということについてまとめなおそうと考えた。しかし、あまりに問題が多岐に渡り、てんやわんやしてしまった。多少バタバタするが、その辺もあわせて示してみたい。 
 現在、我々の常識において日本の国を規定する場合、次の三点が主に主張される。
1、日本は四方を海に囲まれた、孤立した島国である。
2、日本は稲作によって支えられた国である。
3、日本は世界でも稀にみる単一民族の国である。
 これらの主張は、しかし、ちょっと考えてみれば大変矛盾した考え方であることが分かる。 
 まず1では、海による孤立を主張することで日本文化の独自的発展が考えられている。そして、この考えをつきつめる形で3の主張へとつながっていく。しかし、考古学、民俗学等の成果により、有史以前から列島の各地域で大陸との交流が盛んに行なわれていたことが知られるようになった。 
 環日本海沿岸の生活圏をはじめ、瀬戸内海の島じまと朝鮮半島との交流、琉球を中継点とした東シナ海文化圏など、世界の生活圏の中で日本列島は存在していたのである。つまり、1の主張のように海は大きな障壁ではなく、重要な交通路であったといえる。日本列島ではその諸生活圏の中でそれぞれの文化が発達し、互いに流通していたのである。 
 次に2。去年の米不足のおり、日本人の米に対するこだわりが非常に深いことが確認されたわけだが、その感受性=日本人となるのだろうか。一般に稲作一元論が主張される場合、「日本人の魂は稲を通じて大地の力をもらっている」といった類のことがいわれる。つまり、稲をして日本の宗教の核心を説明し、天皇家がおこなう新嘗祭が日本人にどれだけ重要かを説くのである。聖なる天皇を立てることで稲作=日本人を公式化しようとしているといえよう。 
 しかし、天皇をかつぎだすならば、供御人の存在が忘れられてはならない。供御人とは、海の幸や山の幸を直接天皇に貢献する集団のことである。網野善彦や黒田日出男などの研究で示されるように、天皇がおこなう儀式において、米が権力の分かりやすい象徴であるのに対して、海や山の初物が天皇権力の暗いマジカルな部分を受け持っていたとされる。又、そうした海民、山民の非農業集団が中世紀まで天皇家の直属軍事力として編成されていたことも注目に値する。建武の新政のとき、後醍醐天皇が悪党とよばれる非農業集団と結びついたのも、このマジカルな力を取りもどそうとしたといえる。さらに、天皇との関係を離れた後でも、この海民、山民は独自の流通経路を通じて楽市を組織するようになる。日本の都市性は彼ら抜きで語ることができない。 
 以上のように1、2をあわせて考えてみれば、3はおのずと否定されよう。事実、日本列島には、アイヌや琉球の民族が存在し、東北人を一つの民族と見る向きもある。この列島に住んでいるのが人間である以上、生活レベルで考えれば、日本は単一民族と簡単にいうことはできない。日本が単一民族であるとしてきたのは、畿内に発生した権力であり、その主張は皇国史観を構成するのにどうしても必要だったのだ。中曾根元首相の日本単一民族発言は単なる皇国史観の焼直しにすぎない。日本という国は民族によって建つ国ではない。 
 しかし、現在、我々日本人は日本列島に住むあらゆる人々にある種の均質性を感じている。この事実はぬぐい去れないものであろう。いったい、この均質性はどこからくるのだろう。 
 網野が指摘するように、それは律令制が列島の隅々まで行き渡ったことに原因する。律令制において、何よりも効力をもつものは書類であり、その書類がことあるごとに列島中に撒き散らかされるのである。 
 畿内の言葉が列島の権力空間における共通語となったことは想像に難くない。しかし、書類の文章は中国からの漢語を用いられることが多く、それだけでは役人だけの言葉で終わってしまうはずである。そこで網野は「ひらがな」の存在に注目している。 
 平安期にはいり、列島の権力空間がひとまずの安定がみられるようになると、女性の中から「ひらがな」が起こり、生活レベルでの共通言語として機能するようになったのである。「日本語」という均質性が生まれたわけだ。 
 確かに、言語を空間としてとらえることで日本の均質性を見いだすことができる。しかし、私はその「ひらがな」さえも受け入れた人々の感受性に注目したい。 
 元来、女性性という他者的なるものであるはずの「ひらがな」を受け入れることで日本という均質性を開いてしまう感受性。そう、私が「日本的なるもの」と呼ぶものは、まさにこれである。
by j-sense | 2007-09-16 09:20 | □日本的なるもの