人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日本の大地で培われて来た日本人の感性を原点とするデザイン創造集団


by j-sense
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

続き2/関西無常文化総合研究所

日本的なるもの7

 幼い頃のこと。毎年正月になると、近所の庭先に獅子舞が訪れていた。母はよく私を見に連れていってくれた。獅子舞にかまれるとその一年の厄除けになるといって、母は私の手をカチカチと音をたてる歯にかませていた。他の子供たちより泣き虫だった私は、かならずといっていいほど大泣きをしていた。 
 さて、獅子に手をかまれてもさほど泣かなくなった頃、獅子に扮している人が親しくしている近所のおっちゃんであることに気づいた。はじめてそのことに気づいた年は、酒屋のおっちゃんと裏に住むご隠居さんだった。役回りは毎年当番制だったようで、駄菓子屋のおっちゃんやそろばん塾の先生、友達の父親などが、正月ごとに獅子に扮していた。 
 私が不思議に思ったのは、獅子舞のあった日、その日一日中、その獅子当番のおっちゃんたちに、何か強い存在感が感じられたことである。これは私に限ったことではないと思われる。獅子舞は、その一日をかけて、町内あちこちの庭先で行われるが、行く先々で、子供たちが遠巻きで畏敬の視線をおっちゃんたちに投げかけている光景がよく見られた。しかし、翌日になると、普段と変わらない気さくなおっちゃんたちに戻っていたのである。いったい、あの異なるオーラは何だったのだろう。 
 そうした印象は、実のところ年を経ていくうちに薄れていったのだが、大学時代、バリのバロンダンスを見た瞬間、それらのことが意識の表舞台によみがえってきた。 
 バロンとはバリ島における善の精霊のことをさす。その姿はギョロっとした目玉に大きく開く口、するどい牙と威嚇する角。小刻みに震えるその体はまるで内からわきたつ力を押さえ切れないかのようである。その与えるインパクトは南国特有の刺激でむせかえるようだが、根本にあるものは日本の獅子舞に似ているな、と感じていた。 
 後日、バロンダンスと獅子舞の関連性について書かれた文章を見つけたとき、すくなからず、我が意を得たりと感じた。その内容をごく簡単に言えば、人間の生活世界に善をもたらそうとする強力な力がバロンという姿になり、その姿が東南アジアから黒潮に乗り、東シナ海沿岸のアジア諸国に広まった。伝播した地域でもその姿は、人間の幸せを求める力と結びつき、日本でも正月などの節目に祝いの舞として獅子舞が行われるようになった、ということである。 
 その後、バロンダンスと獅子舞に関する資料をいくつか見たが、それらを総合してみると、バロンも獅子舞の獅子も、生活世界におけるケガレを浄化するカミとして考えられていることに間違いはないらしい。そう、獅子舞はカミによる浄化と祝福なのである(ことわっておくが、ここでいうカミは一神教的な神ではなく、古来より人間が自然の力に対して持つ畏敬の念が生み出したアニミズム的なカミである)。そのカミの仮面をもっておっちゃんたちは演じていたのである。 
 そこで注目したいのは、仮面のもつ威力である。おっちゃんたちは、ただカミの仮面をかぶるだけで、私を畏れさせた。つまり、仮面をかぶることで、おっちゃんたちはカミのように現実より強い存在となったのである。獅子舞をするおっちゃんの、あの何ともいえない存在感、どうも近づき難いオーラは、獅子舞の仮面が元来もつカミ的な力によるものだったのだ。翌日、普段通りのおっちゃんたちに戻ったのも、この仮面をはずしたことに原因するといえる。 
 しかし、人間の存在というものは、なんとも多様で脆いものか。カミの仮面をかぶることで超地上的なカミの領域へと開示されたり、会社である役目を与えられれば一端の社会的な人間になったりする。日本というアイデンティティを与えてやれば誰でも日本人なのである。(日本人とは仮面のことなのだ。) 
 話を戻そう。現在、獅子舞を見ようと思うと、少々苦労して探さねばならない。生活世界の構造が変化したため、当番制で獅子舞を行うことが少なくなり、ましてや獅子舞を生業とする芸人もほとんどいなくなった。つまり、ケガレを浄化するメカニズムが今の日本の共同体には失われているといえる。昨今の新・新興宗教がさらけ出してくれた歪みも、そのことと通底している。その歪みから学ぶものは多い。第二・第三のオウムを生み出すなかれ・・・

日本的なるもの8

 ドイツの哲学者カール・レーヴィットが来日したのは昭和11年だった。ナチスがドイツの政権を握り、ヨーロッパを破滅に導こうとしていた頃である。レーヴィットはユダヤ人だったため、ドイツに留まることが不可能になった。 
 そこで、東北帝国大学の招聘を受けて、わざわざ東の果てのこの国までやってきたのである。その後、彼は昭和16年まで滞在し、太平洋戦争の開始とともにアメリカに渡ってしまった。 
 そうした事情で、多少なりとも日本を知るレーヴィットに「日本の読者に与える跋」という文章がある。『ヨーロッパのニヒリズム』という著書の日本版あとがきに寄せられたものである。 
 『ヨーロッパのニヒリズム』はレーヴィットが生涯のテーマとした、人間の自己確信が崩壊する道行を哲学史に位置づけるものである。自己意識を全体的な意識にまで拡張し、その巨視的な視点からすべてを説き明かしたと信じるヘーゲルから、「神は死んだ」と叫ぶことですべての価値判断を無効にしたニーチェまで、ヨーロッパのアイデンティティが失われる姿をレーヴィットは描き出した。彼はその自らの行為を「ヨーロッパ的自己批判」と呼び、ヨーロッパにおける、それまでとは違った人間の在り方を模索したのである。 
 しかし、その返す刀で彼は日本を批判する。日本の何を?つまり「日本的自愛」を! 
 「前世紀の後半において日本がヨーロッパと接触しはじめ、ヨーロッパの 
'進歩'を嘆賞すべき努力と熱っぽさをもって受け取ったときは、ヨーロッパの文化は、外的には進歩し、全世界を征服していたとはいえ、内実はすでに衰退していたのである。(中略)その時はもうヨーロッパ人はその文明を自分でも信じなくなっていた。しかもヨーロッパ人の最上のものたる自己批判には、日本は少しも注意を払わなかった。」 
 日本はヨーロッパから産業と技術だけを学びとった。つまり、日本のものの考え方、風習、ものの評価というものはそのままに、外面的にヨーロッパの技術を身に纏ったのである。そして、ヨーロッパ的外面の矛盾に気づくやいなや、簡単に打ち捨てようとする、あるいは自らの内面の働きでよりよき「日本とヨーロッパの統合」を作り上げようとする。しかし、ヨーロッパ的外面はそれを着ることで内面までその矛盾が蝕んでくる代物だったのである。今なお続く宗教上、道徳上、社会上の矛盾をみれば、その浸透性に気づかされる。 
 したがって、日本はヨーロッパのニヒリズムに真っ向から向き合わねばならないはずである。しかし、それにはヨーロッパの書籍を研究し、知性の面のみで理解するだけではいけない。レーヴィットは当時の日本の学者を指してこういう。 
 「彼らはヨーロッパ的な概念--たとえば'意志'とか'自由'とか'精神'とか--を、自分達自身の生活、思惟、言語にあってそれらと対応し、ないしはそれらと食い違うものと、区別もしないし比較もしない。」 
 日本の学者は他なるものの中から自らを問題にすることがないというのである。彼らはものごとを日本的に感じたり考えたりしているのに、外面的にはヨーロッパの概念をふりまわす。そこには自らの体験への自己省祭なり、自己批判がない。この点をレーヴィットは「日本的自愛」と呼んだのである。 
ヨーロッパにおけるゲーテやニーチェ、ボードレールのように、自己および自己の国民を問題にする日本人が果たしてあるのだろうか、彼はそう問いかける。 
 そうした批判は実際のところ、今でも有効性を失っていないと思われる。 
 戦後50年間、ドイツでは自らの内に抱え込んだナチズムという問題を徹底的に考えてきた。戦犯に対しては執拗な追及がなされ、被害者に対しては可能な限り保障を行ってきた。解決つかない問題は山ほど残っている。しかし、民族に宿るナチスの火を克服しようと全力を尽くしてきたのである。 
 しかし、日本では近年の従軍慰安婦問題をはじめ、近隣諸国への謝罪・保障、靖国問題等、ほとんど無視の状態が続いている。ようやく国会セレモニーとしての「戦後50年国会決議」なるものが表面化したが、結果は周知の通り、ていたらくなものである。 
 日本は「民主」を、「平和」を、「共生」を、そして「戦後」をいかに学び、いかに考えてきたか。いや、いかに学ばず、いかに考えてこなかったか・・・

日本的なるもの9

 ふだん、我々はことばというものについてどのように考え、それをどのように使っているのだろうか。 
 現代のような情報過多の社会に生きていると、ことばは情報を表現する手段としてのみしか扱われていないのではないだろうか。この場合、情報の内容が大切なのであって、ことばそのものは手段としての役割以上に考えられていないといえる。 
 情報の収集と公開の速効性が問われる現代において、それは一面の妥当性をもっており、新しい表現知として今後の成果が楽しみな領域ではある。 
 しかし、ときとしてことばは表現手段としての役割とは違った姿を見せてくれる。たとえば、折口信夫の『死者の書』に触れるとき。
物の音。----つた、つたと来て、ふうと佇ち止るけはい。耳をすますと、元の寂かな夜に、----激ち降る谷のとよみ。 
 つた つた つた。 
また、ひたと止む。 
この狭い庵の中を、いつまで歩く、足音だろう。 
 つた。
 死者の足音が読む者をぎくりとさせる。 
 つた つた つた。滋賀津彦が死の淵からよみがえり、藤原南家の郎女にせまりくる足音。なんとも不意をついたことばである。 
 しかし、なぜこうもぎくりとさせられるのであろう。普通の足音であれば、誰かが歩いているのだろうとだけ感じる。ところが、この場合、死者がせまってきている、と確信させられるのだ。つた つた つた、という足音が、死者の到来を確信させるに足ることばとしてそこに存在しているのである。しかも、それは死者の到来を単純に描写しているというレベルを超えてそこに存在している。 
 「つたつた」というようなことばは、擬声語とよばれる品詞に属する。たとえば「ざあざあ」や「わんわん」「さらさら」など。擬声語とは物の音響、音声などをまねて作る語である。しかし、注意すべきは、擬声語はあくまで音をまねて作る語であることだ。つまり「ざあざあ」といっても、雨そのものの正確な描写ではなく、みんなも知っているはずのあの音、という了解のもとに作られているのである。いわば、「雨の音」という意味がたちあらわれるための基体として「ざあざあ」がある。擬声語はことばそのものの物質性を極めて純粋に示してくれる。 
 したがって、「つたつた」も、その物質性をもって我々に、郎女にせまってくる。読む者は、死者が庵の中を歩き回っているからぎくりとするのではなく、まず、その物質性に不意をつかれるのだ。 
 では、「つたつた」という物質的なことばからどういった意味がたちあらわれるのか。 
 死者がこの世によみがえるとき、死と生の間、つまり自然と人間存在の間に何かしらの橋渡しがおこなわれなければならない。折口はその介在する文化システムとして擬声語を使用したのではないだろうか。いや、「つたつた」という足音を発見したといった方がいいか。とにかく、死者はことばを伝って、ことばを踏みしめて近づいてきたのである。(そんなことを考えていると、先日出版された松浦寿輝の『折口信夫論』の中で同じようなことをいっていた。私の考えもそれほど突飛なことではなさそうだ)折口はその指先にもつ筆でことばという物質の上に死者を歩かせたのだ。そう、擬声語が死者の到来を確信させる。 
 郎女は刹那、思い出して帳台の中で、身を固くした。次にわじわじと戦きが出て来た。 
 ことばの物質性に不意をつかれ、次いで、死者の到来を確信して戦きを覚える。わじわじと。もう折口の張ったディスクールから逃れられない。郎女も読む者も、そして折口自身も逃れられない。郎女の戦きは私の戦きか? 
  
 なも、阿弥陀ほとけ
 戦きの中で郎女の唇から洩れた念仏。再び不意をつかれる。そう、ことばを伝って阿弥陀仏が救いにやってくる。郎女も読む者も折口も、そして滋賀津彦も・・・・・ 
by j-sense | 2007-09-16 08:58 | □日本的なるもの