日本の大地で培われて来た日本人の感性を原点とするデザイン創造集団


by j-sense
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カテゴリ:□日本的なるもの( 11 )

図版は、下記を参照して下さい。
http://www.casanavi.co.jp/column/column_onko/col_onko22.html

日本では、建築について学んだ人であれば、まず間違いなく知っているであろう外国人建築家と言えば、フランク・ロイド・ライトが最右翼であることは、あまり異論のない事でしょう。今回から、日本の建築史では異彩を放つ、(私個人としても大好きな)この大建築家について話したいと思います。ライトが日本でここまで有名なのは、旧帝国ホテルの存在が大きいと思います。さらに、ライトは生涯に800件(その内の半分が実現した)もの建築設計を、70年に及ぶ実動期間に行なったという化け物のような建築家ですが、実はあまりワールドワイドではなく、実物件はほとんどがアメリカ国内に限定されていて、アメリカ以外では、カナダに数棟(しかもすでに現存しない)と日本に6棟を数えるのみというほどです。日本には6棟の内、4棟が現存し、しかもライトの生涯でも最大級の作品である帝国ホテルを、一部を移築しただけとは言え、見る事が出来ます。ちなみに日本におけるライトの設計は12件を数え、その中の6件が実現しましたが、林愛作邸(一部)1917、自由学園1921、帝国ホテル(一部)1923、山邑太左衛門邸1924が現存しています。帝国ホテル別館1923は取り壊され、箱根の福原有信邸1920は関東大震災で倒壊しました。(西暦は竣工した年、以下も同様)

ライトは住宅建築家として世に出て、終生、その立場を変えなかったと言うか、その外の大規模建築の機会が与えられなかったと言うか、どちらにしても、壮年期の帝国ホテルなどと、晩年のジョンソン・ワックス本社やグッゲンハイム美術館、マリン郡庁舎などのごく一部を除いては、作品のほとんどが住宅なのです。これまでに挙げた作品以外では、傑作と言われるウィンスロー邸、ロビー邸、カウフマン邸など、住宅ばかりです。ライトがアメリカ国内で大規模建築を手がけたのは、晩年に限られているのに、なぜかアメリカ国内での知名度も人気も高いのです。それは、通常切手に肖像が描かれ、サイモン&ガーファンクルが「FLライトに捧げる歌」を作り、映画タワーリングインフェルノで、冒頭の建築家が砂漠からヘリコプターで出発するシーンはライトがモデルだと言われるほどですから相当なものです。何故かと言えば、私見ですが、ライトはきわめてアメリカ的な建築家と言えるからではないでしょうか。アメリカの中部に生まれた純粋のアメリカ人(アメリカ人に純粋と言う表現があるのかどうか知りませんが)であり、波瀾万丈のドラマのような生涯を送り、最終的に成功者になった辺りが、アメリカ人好みなのではないかと思います。

ライトは1867年ウィスコンシン州リッチランド・センターという小さな町に生まれました。18歳で両親が離婚し製図工として働き始めます。20歳でシカゴへ出て、シルスビーという建築家の事務所で修行をしました。翌年アドラー&サリバン事務所に移ります。ルイス・サリバンはライトの師匠とされる人物で、アールヌーボー風の植物的装飾を得意とした人気建築家でした。現在でもシカゴでカーソン・ピリー・スコット百貨店やオーディトリアム・ビルなどの作品を見る事が出来ます。ライトは、師匠サリバンがフリーハンドで描く見事な装飾文様を見て、これはとても敵わないと思ったのか、自分は直線的なデザインをするようになったと言われています。

入所の翌年に結婚したライトはシカゴの郊外、オークパークという住宅地に自邸兼アトリエ1889を自らの設計で建てます。これが建築家ライトの処女作と言って良い作品です。現在でも財団によって管理され、見学することが可能ですが、後のプレーリーハウスと呼ばれるデザインの原形を見る事が出来ます。この頃から才能を発揮し始めたライトは、事務所内で住宅を専門に担当するようになったようで、若いのに独立した部屋を与えられるほど優遇されています。

自邸兼アトリエ
シルスビー事務所に在籍した当時、日本贔屓であった所長のシルスビーの美術品などに触れたと思われるライトは、1893年のシカゴ博覧会で日本が出品した「鳳凰殿」を目の当たりにしたようです。サリバンの事務所でも博覧会場に建設されたいくつかの建物を設計していましたので、建設中から鳳凰殿を見ていたに違いありません。この時期頃から日本美術に対する興味が広がったようです。ライトは自分の作品に見られる日本趣味(日本で人気のある理由の一つですが)を、生涯、認めようとはしませんでしたが、実は浮世絵の収集家としても知られていて、一時期は浮世絵を扱う美術商の様なこともやっていました。1905年に初来日をしますが、浮世絵の収集が主な目的であったと考えられます。その証拠に、1906年と1908年にシカゴ美術館で浮世絵展を開催したり、コレクションを出品したりしています。とにかくライトが日本的なるものに深く精通していた事は確かでしょう。

住宅建築家として自信を付けたライトは1893年に独立(アルバイトがばれてクビになったとも言われます)しますが、この年に出世作となるウィンスロー邸が竣功しました。深い軒と大きな屋根、水平線を強調したデザインはプレーリーハウスの1棟目とも言えるもので、現在でもその美しさは見事です。草原地帯に生まれ育ったライトには自然なデザインだったのかも知れませんが、ヨーロッパ指向の強かったアメリカでは、それまでに無い独創性溢れたデザインで、多くの人に認められた結果、その後ライトに住宅設計の依頼が殺到する事になりました。この時期を「第1期黄金時代」と呼びます。現在でも自邸のあるオークパークとその隣に広がるリバーフォレストにはライトの作品が数十棟も残されています。中にはクイーンアン様式などの新古典主義の住宅も多くあり、明らかにライトの指向と異なるデザインで、恐らく施主の要望を新進建築家としては無視出来なかったのではと思えるものです。ライト設計の住宅は現在でも評価が高く、100年以上前の住宅に普通の生活をしている人たちが、ライトのデザインを尊重しつつ(大きな改変もせずに)住んでいるのです。オークパークなどでは、自邸やウィンスロー邸の他には、プレーリースタイルの作品であるハートレー邸1902やチェニー邸1903などは押さえておきたいものです。


ウィンスロー邸
ハートレー邸
ちなみに、この時期のライトのデザインは、現在の日本の住宅(特に2×4系)のデザインに多大な影響を与えています。あちらこちらにライトの亜流(失礼!)の姿をした住宅が建設されているのは、皆さんご承知の通りです。ところで、住宅ではありませんが、オークパークのユニティ教会1906も傑作として名高く、機会があれば是非見て欲しいものです。複核プランと呼ばれる、機能の異なる空間を巧みに組み合わせることに成功しています。ライトは空間構成の魔術師で、段差や広さ狭さなどを計算した上で、次々と視界が変化するようなドラマチックな空間を生み出しています。ドアをあまり用いずに、空間変化だけで空間を仕切る事もしています。現代にも通じるオリジナリティの高さは、さすがと言わざるを得ません。後にタリアセンを開設して、建築家の教育にも力を注いだライトですが、弟子に指示する時にはあたかも目の前に図面があって、それを読むがごとくに詳細な寸法指定まで指示したと言われています。きっと頭の中には図面が出来上がっていたのでしょう。天才たる所以ではないでしょうか。


ユニティ教会
ユニティ教会(内部)
シカゴ大学の構内にプレーリースタイルの最高傑作と言われるロビー邸1909が建っています。シカゴ大学が管理するこの住宅は、水平線を強調するために長く伸ばした庇が印象的な建物ですが、この庇のためにライトは当時まだ一般的でなかった鉄材を構造材として用いるなど、先進性を見せています。内部構成も直線的な装飾もライトならではのものです。面白いエピソードとしては、完成後、突然現れたライトは自らが設計した椅子などの家具を、施主が自由に位置を変えて使っているのを見て激怒し、自分で元の位置に戻して決して動かしてはならないと言い放って帰ったそうです。本当かどうかは定かではありませんが、そのせいかロビー氏は完成後数年で、この傑作住宅を売却してしまいました。


ロビー邸
ロビー邸(内部)
今回は生まれから第1期黄金時代までを述べました。次回はこの続きを述べたいと思います。
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by j-sense | 2007-09-16 13:08 | □日本的なるもの
表象文化論学会第2回大会研究発表:パネル4

パネル4 受容としての「日本思想」〔芸術篇〕
7月1日(日) 13:00-15:00 東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム2

ある文化現象の生起に主導的役割を果たすのは、自律自閉した思考主体による創意や地政学的コンテクストのみではない。とりわけ芸術と名指される分野では、むしろ「他者」との邂逅や対話関係によって、その歩みが形成されてきた。その過程は、ややもすれば単純な影響関係としてのみ語られる傾向にある。その一方で、「日本的なるもの」という自律的かつ自足的な存在を措定し、そこに何らかの思弁や言説・作品を派生させるような「本質」を見出す思潮も、いまだ根強く残存している。かような趨勢からは批判的距離を保ちつつ、それでもなお「日本(的なるもの)とはなにか?」と問い続けるならば、過去の断片化された痕跡や遺された言葉の探査という、特異的かつ発散的な「出来事」に対する繊細かつ愚直な試みが要請されることとなるだろう。

我々の言う「日本思想」とは、広義かつ仮設的なカテゴリーである。それは何らかの本質の謂いではなく、むしろ「他なるもの」との邂逅、格闘と受容、他方の曲解や誤解、忘却といった一連の流れに付された、いわば通り名のようなものだ。本パネルではかかるアプローチを取ることで、従来の日本思想史研究や受容研究、比較文化研究等とは異なった視点を提示したい。積極的・統一的な収斂点は前提とせず、各発表によって結果的に形成されるかもしれぬ多焦点的な状況布置を、来聴者との議論も交えながら浮かび上がらせることを期待している。

【本パネルは、「受容としての「日本思想」〔思想篇〕」と連携しており、2パネル1組として構想されたものです。】(パネル構成:小澤京子)

【コメンテイター】横山太郎(跡見学園女子大学)
【司会】柿並良佑(東京大学)

様式を通じた世界との接続―伊東忠太による「日本建築史」/天内大樹(東京大学)

本発表では、まず日本建築史学の泰斗と目されてきた伊東忠太における「様式」概念を,彼の代表的な論考である「建築進化論」から抽出する。「建築進化論」で「進化」するとされた「建築様式」は、歴史学者の視線で西洋由来の建築史学的視座から整理されている。この議論の背景には、とくに日本の「建築様式」が西洋の影響を受けて以降いかに変化していくのか、変化すべきかといった建築界の議論があるが、伊東は日本の「建築様式」をギリシア由来の西洋建築史と対応関係を失わない形で説明しようとしていた。そこでは諸様式間の価値判断は脱落しており、歴史学的・地理学的に等し並みに配置された各様式のマッピングがなされ、それが日本の「建築史」を世界的な建築史と接続する理論装置と化していた。こうした「日本建築史学」成立にあたっては、すでに日本美術史学の先駆けの一人とみなされてきた岡倉天心の影響が指摘されてきた。岡倉においても日本における美術史学の成立にあたって、西洋由来の世界美術史が援用されているが、ギリシアに代表される古典古代への態度に関しては、伊東のそれと微妙にずれており、岡倉は東洋美術の隆盛を「東洋的ロマン主義」の高揚をもって説明した。これについては「象徴的」「古典的」「ロマン的」というヘーゲル的な歴史把握の影響も指摘されてきたが、ではそうした影響がなぜ伊東に伝播しなかったのか、本発表はこの問いへの説明を試みる。


近代日本の「美術」と「文化」をめぐる諸制度―矢代幸雄による美術史記述と文化国家論/小澤京子(東京大学)

本発表では、日本における西洋美術史研究の祖であり、日本美術の紹介や文化財制度の整備にも尽力した人物、矢代幸雄(1890-1975)を扱う。欧州での研究成果を纏めたボッティチェッリ論(1925)は、日本人による初めての本格的な西洋美術史研究であった。帰国後の彼は、日本美術の地位向上に尽力するようになる。それは個人の趣味判断としての「日本回帰」ではなく、西洋的教養を身につけたエリートの、自らに課された社会的役割期待に対する応答であった。英米の大学でも教鞭を取り、数々の美術館で役職を務め上げた経歴は、国際的視野をもった日本の文化人という立場を彼に要請した。かかる状況の中で矢代が唱えたのが、文化によって国力や国際的地位の向上を図ろうとする「文化国家論」である。彼の論調は、戦前から戦後まで一貫して中立的な外観を保っているが、自国文化をナショナル・アイデンティティーの根拠に据えようとする巧妙な政治性を潜ませてもいる。

ここでは1)美術史研究の西洋からの継受と自律的・内在的な確立、2)西洋文化に比肩しつつ独特の価値を有するものとしての日本美術観、3)戦後日本の「文化人」に課された役割期待と「文化国家論」、という三点が分析の対象となる。それは日本近代に特有の問題系を炙り出すとともに、今なお「西洋美術史」や「文化財」を囲繞する、様々なレベルの「制度」に対する問題提起ともなるであろう。


天・地・人をつなぐもの―世阿弥「一調・二機・三声」をめぐって/玉村恭(東京大学)

世阿弥の有名な言葉に、「一調・二機・三声」というものがある。彼の能楽論には中国思想や仏教哲学など先行思想の流用が多く見られるが、「一調・二機・三声」の中核に位置する「機」の概念もまた、仏教的な「機」および中国思想で伝えられてきた「気」の哲学の換骨奪胎によって着想されたものである。だが問題は、彼がそれを単なる流用にとどまらせず、いかにして独自の地点に到り着いたかを見極めることである。

「一調・二機・三声」は、演能の開始、とりわけ最初の一声を発することの要諦について論じたものである。「機」とは「気」であり、息に主体的意志が加わったもの、とこれまで解されてきたが、世阿弥の「機」には、演者の主体性に還元されない広がりが蔵されている。それは人が人である限り持ち得る心のある様態であり、従って心を有するあらゆるもの、すなわち天下万物が相互に「感応」するための手がかりとなるものである。万物は「機」によって通じ合っているばかりではなく、「機」の様態によって常に互いの位置を確かめ測り合っている。世界は、そのように「機」によって編み上げられたものとして理解することが可能である。能を演ずるとは、演者が「調子」を「機」に合わせ、「当気和合」を実現することによって、「機」ないし「気」の小宇宙としての世界の形成に参与することに他ならない。
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by j-sense | 2007-09-16 13:00 | □日本的なるもの
 小倉遊亀、104歳。きんさんぎんさんにはかなわない(しかも向こうは2人だ)が、遊亀ちゃんは文化勲章も受章した現役の画家。別に差別するつもりはないけど、ただ無邪気に生きてるだけというのとはワケが違う。
 それにしても、先日90歳で亡くなった東山魁夷も含めて、日本画家は総じて長命だ。なかでも遊亀ちゃんの属している日本美術院(以下「院」)は、別名を「養老院」と呼ぶほど。呼ばないか。岡倉天心とともに初期の頃から院のリーダー的存在だった横山大観は満90歳で没。その年、院は財団法人となり、初代理事長に就任した安田靫彦は94歳まで生きた。第2代理事長に89歳で就任した奥村土牛は、理事長の座を95歳の小倉遊亀に譲った後、101歳で没。その遊亀ちゃんが104歳で現役なのだから、これはもう妖怪集団である。でも全員が長寿なわけではなく、むしろ長生きした者が理事長になる年功序列制といったほうが正解だろう。だから、遊亀ちゃんのあとを継いで60代で理事長に就任した平山郁夫は異例の若さ、小僧といっていいくらいだ。

 小倉遊亀展である。これは「パリ展帰国記念」と銘打たれているように、今年2月にパリの三越エトワールで開かれ「大好評を博し」た個展の「凱旋記念展として」行われたもの。でもカタログ末尾の「パリ展報告」を見ると、52日間の会期中の総入場者は5503人。1日平均100人ちょっとではないか。もちろん動員数だけで判断するべきではないが、それにしてもこれで「大好評を博しました」と胸を張るとは。
 ともかく、問題は作品だ。出品作品は計100余点、そのうち戦前のものは16点のみ。その多くは(特に顔の描き方が)童画を思わせ、ほのぼのしちゃいます。しかしこれらには、タイル張りの風呂に浸かる2人の裸婦を描いた戦前の代表作というべき「浴女」(今回は不出品)のようなモダニティが感じられず、単にほほえましいだけともいえる。ただ植物の描写はうまい。遊亀ちゃんが絵の道に進む大正時代(!)に安田靫彦をたずね、「一枚の葉っぱが手に入ったら、宇宙全体が手に入ります」との言葉をもらったというが、それを字義どおりに受け止めてしまったのか、葉っぱの描き方だけは達者なのである。

 日本画というのはとりあえず、日本の伝統的なモチーフを、伝統的な素材や技法で描くものといえるだろう。ところが遊亀ちゃんの場合、伝統的なモチーフを描いたものはみな凡庸である。同展の目玉のひとつとなっている敗戦直後の「麿針峠」は、絵としてちっともおもしろくないし、60年代後半の「菩薩」や「舞妓」、あるいは現在も描き続けている静物画などは、ほかの日本画家に任せればよい。前述の「浴女」のように、遊亀ちゃんが本領を発揮するのはモダンな日常風景を描いた時である。戦後でいえば、60年前後の作品。たとえば、どこかホックニーのポップ感覚に通じる「家族達」、紫、白、赤の色彩が鮮烈な「越ちゃんの休日」(越ちゃんとは越路吹雪のこと)、画面右隅の鮮やかなガラス格子に目が吸い寄せられる「兄妹」などだ。
 このような、戦後急速に普及する洋服や洋間といったモダンな生活様式を描いたものに佳作が多いのは、皮肉というほかない。はっきりいってこれらは、日本画のモチーフとしてはキワモノであるからだ。そして遊亀ちゃんの真価は、まさに「日本的なるもの」と「モダンなるもの」を融合させたキワモノ性にあるといっていい。だが、日本人にとってはキワモノでも、外国人の目からすれば驚くほど斬新なデザインに映ることもある。
 カタログの中で森英恵が、「もしも小倉遊亀先生がモードのデザイナーになっていらしたら、すごく成功されたに違いありません」と述べているのは卓見というべきだろう。なぜならその後、「日本的なるもの」と「モダンなるもの」をファッションに採り入れた三宅一生や川久保玲が、パリのモード界でそれこそ大好評を博しているからである。遊亀ちゃんのパリでの個展も、観客こそ大して入らなかったものの、そのキワモノ性を見抜いた人たちには「大好評を博し」たのかもしれない。
 
パリ展帰国記念 小倉遊亀展 巡回予定
日本橋三越本店 1999年5月11日〜30日   
大丸大阪心斎橋店 1999年8月12日〜24日   
三越札幌店 1999年9月21日〜10月4日 
福岡三越 1999年10月19〜11月7日  
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by j-sense | 2007-09-16 12:56 | □日本的なるもの
中谷礼仁(歴史工学家・早稲田大学准教授)

「日本的なるもの」へのわれわれの音楽的取り組みとは?
とか、小難しい題を付けたが、これはひとつのライブイベントを聴いたときの単なる印象である。「日本的なるもの」への取り組み方をとっても、3つのユニット(ソロを含む)がこれほどまでに違った結果をもたらすというのは、実に興味深かった。また、「日本的なるもの」がそれぞれの出演者たちによってどのように解釈されたのか、というアプローチに相違によって、他でもない自分がどこに立つべきであるのか、を図らずも考えるきっかけとなったのである。

自分は、日本人でありながら、西洋音楽の楽器を手にして、西洋発の「音階解釈」によって限定されている音楽表現に取り組んでいる。

自作楽器を用いて日本の古典を奏でるというアプローチ。非日本発の楽器や表現手法を使いながら、日本の古典楽器と伝統唱法とコラボレーションするアプローチ。そして、日本発の楽器をバンドに組み込んでジャムるというアプローチ。

果たして、自分に「日本的なものをせよ」と迫られたときに自分が出来ることとは何であろう。自分の立ち位置を変えてまで、日本的なものを奏しようと思うのであろうか? 日本的なものを取り上げるとき、われわれは日本の古典に戻らなければならないのであろうか。日本的なものとは古典の中にこそ見出されるものなのであろうか。などなど、つらつら考えてしまったのである。これは早い話が、人がどうだったという以前に、すべて自分が考察するべき問題なのである。もちろん、「日本的○○」というものに全くこだわらないというアプローチがあっても良い訳だが。

さて、昨日金曜日の夜は、尾上祐一氏の「ライヴシリーズ日本の味 初夏の巻」を聴きに国立・地球屋へ。実に有意義な時間を過ごした。

以下データはウェブからの転載:
尾上祐一(回擦胡、RibbonControler)feat.亜弥(舞踏)
(「コントローラ」は、スペルがControllerのはずなんだけど。)

尾引浩志(=倍音S、ホーメイ、イギル、口琴)
今井尋也(能うたい、小鼓)

ヒゴヒロシ(ベース)
つの犬(和太鼓セット)
森順治(バスクラ、笛、尺八)

尾上(おのうえ)氏とは無力無善寺のライヴイベントで以前ご一緒したことがある(噂では某社「カ○ス○ッド」の開発者でもあるとか)。そのとき、印象深い「回擦胡」という自作楽器を演奏していた。「二胡」(二弦琴)の一種なのであるが、通常に非ざるところは、あたかもフィッシングロッドについているリールを回すように、ひたすらくるくると楽器に付いたノブを回すことでパーツが微妙に弦をコスり、音を出す。弓(ボウ)なら一定の所まで弓を引いたらどうしても「返し」が来るが、この楽器は基本的に一方向にくるくる回すばかりだから、延々と長いロングトーンを奏することが出来るのだ、弦楽器のくせに。しかも吹奏楽器にはどうしても関わってしまう肺活量やブレスとも無関係に伸ばせるのであるから、原理的にはハーディガーディのようでもあり、感覚的にはバグパイプのような持続音が造れる楽器な訳である。実に妙な楽器だが、その音色はまるでシルクロードを西の端から東の端までを一気に横断する(Aquikhonne曰く、音の「アカシャ年代記」の)ような懐かしいエスノ感覚がある。「日本の味」と言うよりは、「二本の味」。つまり2本の弦でドローンとメロディを作り出す「シルクロード沿いの味」というのに近い。しかし、アジアの味をエスニックと感じてしまう自分って一体...。

今回は、回擦胡以外に、尾上さんのもうひとつの自作楽器、「リボンコントローラー」の演奏を聴くことが出来た。これは、まるで大正琴のように膝の上にボードを横に置いて両手で演奏するのであるが、まったくもって見事な手さばきである。単音しかでない初代モーグシンセのようなアナログ的な音であるが、原理的には発振している音源部はアナログで、加工(エフェクト)している部分はデジタルであるそうな。だが、その音たるや、尾上さんの趣味でそのような音を選択しているのであろうが、実に古色蒼然としているのであるが、それが実に心地よいのである。オンドマルトノを思わせるピュアな波形を選んでいるのだろう。なかなか強烈なシンプルさである。温度でアナログ発振部の回路に影響が出て音程が変わってしまう(らしい)あたりも、実にアナログ的な楽器の難しさを残した名器(名機?)なのである。それで、尾上さんは日本の唱歌や黒澤映画『羅生門』のテーマなどを奏でたのであった。渋い。

第2部の尾引氏は、初めて聴いた。そのホーメイや口琴の表現力。あれは一体なんなのだ。どこで修行をしたのだろう。彼の口琴は文字通り「人間テクノ」ではないか。「日本の味」と銘打たれたライヴにも関わらず、ソロでは、徹底して自分の「立ち位置」「守備範囲」でその芸を見せる。その潔さが良かった。言っては何だが、全然「日本の味」とは関係がない。だが、彼がゲストとして共演した今井尋也氏(能うたい、小鼓)とのコラボレーションで、初めて「日本の味」の合作をした訳である。ゲストとは言っても、後半の二人による共演は筆舌に尽くし難い「互いの良さを引き出す」シナジー効果を見せ、ゲストを呼んでまでやる意味というのを見せつけてくれたのである。すでに倍音sのCD録音でも聴けるらしい今井氏との共作を今回はライヴ状況において2人で再現してくれたらしいが、鼓を叩きながらの掛け声や能謡の発声と尾引氏の倍音唱法が全く自然なものとして解け合う。今井氏のオリジナルテクストを謡いの様に2人で朗吟するところなど、岡本喜八の『ああ、爆弾』の冒頭を思い起こさせる。なにしろ、こういう日本の古典芸能の発声法で二人の声が「合わさる」ことで醸し出される力というのは実に強烈だ。あとで、今井氏に話を聞くと、「謡い」に関しては今井氏本人がリハを通じて尾引氏に「稽古を付ける」結果になったと言う。実にうらやましい共演(共犯)関係である。

第3部のセットに関しては、いろいろ言えることがある。一言で言うと、それは「何か」だった。悪く言えば、それぞれの演奏者の立ち位置というものが「見えない」ところが残念。言うまでもなく、良いところは何ヶ所もあった。だが、それぞれのメンバーが押しも押されぬ一級の奏者でありながら、演奏を聴いている間中「普段の守備範囲外のことをやっている」という居心地の悪さに終止付きまとわれた。森さんを始めとして、普段やっている「自由形」の即興演奏を通じて、いくらでもそこから底はかとなく滲み出てくる「日本的な情緒」というものを垣間見ることが出来ると思うのだが、日本の民謡その他(日本を思わせる旋律)をそのまま笛で吹く、そのアプローチはいかにも残念だった。今まで素晴らしい演奏を何度も聴いているので、それは意外な驚きなのであった。

つの犬さんのいつもの破綻寸前まで感情的に盛り上げるそのスタイルとエンターテイメント性には、今までと同様の共感を覚えつつも、彼から働きかけられる共演者への「音と眼差し」を通してなされた折角のコミュニケーションも、ある種の疎通不全(私にもよく起こるらしいものだが)、そしてヒゴさんのベースが良くも悪くも絶対に揺るぐことのない音楽的基盤を決定していて、活かされないのであった。

ただ、どんな結果であるにせよ、それが3人が考えた上、どうしても実現したかったプロジェクトであるということには一定の理解は出来る。オリジナル曲を提供したヒゴさんにとってもそれはやりたかったことのひとつであったには違いない。彼の個人的な音楽の嗜好の一部を垣間見ることができたし。だが、あれがほんとうに「それ」であるのか。それはどう見積もっても、もっと良くなる余地のあるプロジェクトであり、その「胎動期」に自分は立ち会ったのだ、と考えることにする。(いや、「曲」をグループ演奏していない自分が偉そうなことを言えた立場じゃないんだけど、まったく。)

註:赤字部分は、尾上氏自身のチェックにより入った「赤」である。まことに尾上氏に感謝なのである。(05/31/2005記)

尾上祐一 wrote:
いやぁ、ほんと詳細なご感想、大変感謝しております。冒頭で書かれている通り、今回ヒゴさんのほうから「日本的なものを」との御題で
ライブに挑んだんですが、日ごろ殆どは「自分の好き勝手に音楽をやる」だったのに対し、今回のような題目があると困難が増えましたが、学ぶことも多いですね。なんか今回の企画で奏法の幅も広がった感じがします。尤も、まぁ自分は好き勝手派なんで、好きな御題目でないと一所懸命やらないとは思うのではありますすが。日本の古い音楽は、子供のころ、祖母が民謡や演歌をローファイラジカセで大音響でよく流していたんで、その辺の原体験があったのも今回に活かされたんじゃないかなと思ってます。アカシャ年代記も読んでみたいと思ってます。

共演された方、それぞれが良いものを持ってたと思いますが、尾引さんのパフォーマンスは僕も同感ですね。もってき方が実にうまかった。

あと、リボンコントローラ、スペルはRibbon Controllerですね。ご指摘ありがとうございます。逆に当方から、ちょっと修正系のコメント
です。

#「カ○ス○ッド」の発明者
⇒開発者にしておいてください(笑)。

#楽器本体はアナログで、発振している音源はデジタルらしい
⇒発振している音源部はアナログで、加工(エフェクト)している部分は
デジタルである。

#温度で金属製リボンの電気抵抗に影響が出て音程が変わってしまう
⇒温度で、アナログ発振部の回路に影響が出て音程が変わってしまう。

どうぞ宜しくお願いします!
2005-05-31 12:40:06
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by j-sense | 2007-09-16 12:43 | □日本的なるもの
書籍名わび・さび・幽玄 「日本的なるもの」への道程
著者名鈴木貞美/編 岩井茂樹/編
出版社名水声社
本書は、和歌、能、茶、日本庭園、俳諧など、ジャンルの異なる領域について、それぞれの評価の歴史をたどり、「わび」「さび」や「幽玄」が、日本の美学の核心として語られるようになってきた様子を明らかにしようとするものである。
目次/
序説 「わび」「さび」「幽玄」—この「日本的なるもの」
第1章 「芸術」概念の形成、象徴美学の誕生—「わび」「さび」「幽玄」前史
第2章 芭蕉俳諧は究極の象徴主義?—野口米次郎が開けたパンドラの箱
第3章 芭蕉再評価と歌壇—「生命の表現」という理念
第4章 「幽玄」と象徴—『新古今和歌集』の評価をめぐって
第5章 能はいつから「幽玄」になったのか?
第6章 茶道の精神とは何か?—茶と「わび」「さび」の関係史
第7章 伝統・抽象・モダン—堀口捨己と「美」のイデー
第8章 庭園をめぐる「わび」「さび」「幽玄」—一九三〇年代における「幽玄」を中心に
第9章 日本庭園の「わび」「さび」「幽玄」はどう外国に紹介されたか
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by j-sense | 2007-09-16 12:42 | □日本的なるもの
松岡正剛の第八百九十八夜【0898】03年11月27日

重要な加筆があるものの、本書はすでにぼくが読んできた論文や著書の一部で構成されている。だから著者からの贈本をうけたときも目次を見たままでしばらく頁を繰らなかったのだが、何かが気になってふと読みはじめ、やっぱりこれは「とても大事な問題構制」だという実感を深めた。
 テーマは表題どおりの「建築における日本的なもの」である。それ以外のことは書いてはいない。
 が、そこには、近現代の日本人が外部の目によっても、内部の目によっても、つねに自問自答・他問自答・自問他答せざるをえなかった「日本的なもの」が、建築思想を踏み破ってあからさまに殴打され、横転している。その「日本的なもの」の痕跡を、著者はあたかも不確定なものを精緻な設計図に移し挑むかのように、徹底して記述する。肯定も否定もしていない。しかし「日本的なもの」の“或る本質”が急速に浮上する。
 なかなか、こういう本はない。日本社会論や日本文化論はそれこそ数えきれないほどあるけれど、桂離宮を語ってイサム・ノグチや岡本太郎から「視線の回避」におよび、日本人の国民的建築様式感覚を覗いて丹下健三から廃墟的迷宮のほうへ思いをいたし、伊勢神宮と西行を論じて「影向」にひそむ隠れる祖型を掬うというような芸当を、一人で同時にやってのけた著書は、かつてなかった。
 磯崎新の著書については、採り上げたい本はいくらもある。最初の『空間へ』は早々とスペースデザインにおける創発的形質の何たるかを暗示していたし、「美術手帖」連載時から無類の輻湊的な仕掛けを感じさせた『建築の解体』は、まさに建築=思想の連動起爆装置として、その後の日本の建築家を(思想家も)脅かしつづけた。ぼくはこの連載でクリストファー・アレグザンダーのセミラティスにぞっこんになったものだった。
 20世紀が「主題の世紀」であったとするなら、21世紀は「方法の時代」であってほしいと思うぼくには、『見立ての手法』(本書の「カツラ」論を含む)や『手法が』は、まことに強力な援軍の登場に見えた。そこには重源とパラッディオと二条良基とイタロ・カルヴィーノが奇蹟のように一緒のベンチから立ち上がっていた。そこにはまた、「闇」と「虚」の対比が日本においては何を意味するのかという秘密が提示されていたし、著者の引用と暗喩をめぐる手のこんだ思索のプロセスには、建築がつねに“歴史的編集”をうけつづけてきたものであることが、明確に宣告されていた。これらの本が書店に並んだときは、なんだか両手を握りしめてガッツポーズをしたくなるような嬉しさがあった。
 一方、建築行為以前の太初に蟠っているはずの造物主デミウルゴスをデザインの現場に召喚した『造物主義論』は、学生のころからプラトンの『ティマイオス』に激しい嫉妬を感じてきたこの建築家が、ついにその内奥の正体を名指ししようとした傑作だった。
 まだまだ、ある。淡路島に首都を移転したらどうか、族議員を役人にしてしまえ、東京国際フォーラムこそゴミの建築だ、といった言葉が飛び交う『磯崎新の仕事術』『磯崎新の発想法』などは、80年代以前の日本なんて新幹線とオリンピックとリクルート疑惑をやったくらいにしか思っていない若い世代には、すこぶるふさわしい磯崎入門書であろう。加えてぼくは『建築家のおくりもの』の追悼文集「あなたはいまどこにいるのか」の声の響きなども、大好きなのだ。
 おそらく磯崎新を読むということは、磯崎新を見るということ以上にすぐれて言語建築的なのである。
 だからこれを追いかけるのは(ぼくは時代ごとに少しずつ読んできたからまだしも)、ふつうはめっぽう大変なことだろう。ボルヘスの作品のように目を使わないで、言葉の目で世界を再構築した文章世界を読むという体験なら、なんとか想像力だけで読めばいいのだが、実在の建築物の文章に被せられた磯崎言語による再構築の思惟経路をひとつずつ読んでいく作業は、想像力だけではまにあわない。
 なぜなら建築とは、その一個一個が現実の社会に突き刺さっていくものであるからだ。
 しかし、今宵は本書に尽きるのだ。本書はぼくが考える「日本的なもの」とは何かということに、その中心軸でまさに交差している、かけがえのない再構築書なのである。
 その感想を書く前に、いささか個人的なことを記しておくが、磯崎さんとは『遊』の初期に出会って以来、何度も話をし、何度か仕事をともにしてきた。いまも織部賞の仕事などで定期的に会う。
 最初は杉浦康平さんに紹介された。何の集まりだったか忘れたが、奈良原一高、栄久庵憲司、海上雅臣さんがいた。磯崎・杉浦コンビが『都市住宅』と『SD』を仕切っていたころ、三島由紀夫が自決し、大阪万博が終わって1年がすぎたころである。そのときぼくはルドゥのことを話した。磯崎さんはルドゥなら自宅に蔵書しているから見にくるといい、でっかい本だよと笑った。矢も盾もたまらなくて、さっそく訪れた。当時のぼくは歴史的な書物に出会うことが仕事だと思っていたせいもある(だから稀覯本を揃えている天理図書館などには何度も行った)。
 行ってみると、夫人の宮脇愛子さんがすばらしい食事を用意していて、一緒に食べようという。酒を飲まないぼくには、夫妻が用意する晩餐を極上のワインを無視して頂戴するのが心苦しかったのだが、玄米ごはんと料理がおいしくて、つい食べすぎた。それからルドゥの建築図集を拝見し、夜明けまで話しこんだ。磯崎さんは口調が大工職人のようで、まったく屈託がない。
 その直後、ぼくは『遊』4号(1972)に「磯崎新の建築術」を特集することを思いつき、そのころの代表作のひとつだった福岡相互銀行をナナメに切り取る切断作図を40枚近く載せながら、16ページにわたるインタビューを構成した。丹下アトリエ時代にダーシー・トムソンの『成長と形態』から受けた影響のこと、空間というものはとびとびの微粒子の軌跡のように見たほうがいいということ、廃墟や違犯や軋轢に興味を寄せていること、情報としての空間を考え始めていることなど、その後の磯崎世界のいくつもの原点が示唆されていた。
 それからあとのことは簡単にすますけれど、磯崎さんが山口昌男や鈴木忠志と一緒に仕事をしている場面と、ぼくが活動をしている場面がしだいに重なってきた。そのひとつが1978年にパリのルーブル装飾美術館で開かれた「間MA展」である。プロデューサーが磯崎さんと武満徹さんで、大当たりの展覧会になった。ぼくも篠山紀信・山田脩二・小杉武久・芦川羊子・白石加代子・田中泯・鈴木明男らの知り合いのアーティストとともに参加した。これは初めて「間」について、また神道空間の本質について考える機会となった。杉浦さんが図録とポスターをデザインし、ぼくは編集構成に丹精こめた。
 本書はその「間MA展」にインスタレーションされパフォーマンスされた「日本的なもの」とは何かという問いを、その後の磯崎さんがどのように消化し、昇華していったかという軸をもっている。そう、ぼくには読める。
 もうひとつ本書についての個人的な経緯を加えると、ぼくは80年代になって磯崎さんや三宅一生さんらに呼びかけて「ジャパネスク委員会」をつくろうとしたことがあるのだが(何の活動もしなかった)、本書はそのころの性急な意図に対しての回答にもなっている。
 さて本書だが、4章構成になっていて、第1章では20世紀日本の建築がどのように「日本的なもの」を受容し、様式化していこうとしたかが、大正昭和の建築様式の“実験”を通して証される。これが大きな展望軸となって、第2章ではカツラが、第3章で一時代だけに出現して消えた重源の大仏様(天竺様)が、第4章では著者がずっと考え続けてきた「始原のもどき」としてのイセが検証されるという構成結構になっている。
 そもそもの問題は、明治初期にフェノロサによって救世観音や狩野派の凄さが先取りされたように、昭和初期にタウトによって桂離宮が機能美の極致だと絶賛され、伊勢神宮がパルテノンの神殿に比肩されて、世界の建築家たちの最終巡礼地にさえ指定されてしまったことに始まった。すでに堀口捨己の茶室の研究や岸田日出刀の日本美抽出の作業があったものの、このタウト・ショックは日本建築および日本美の見方について、あっというまに「ほんもの=オーセンティック=天皇的==桂・伊勢」「いかもの=キッチュ=将軍的=日光」という図式を氾濫させた。
 折しも日本は1930年代になってアジア侵略を始め、八紘一宇にもとづく大東亜共栄圏の構想に突入していった。これはまさに空間と時間の占拠そのものの計画であったから、そこに多くの建造物が巻きこまれた。かくて、多くの「帝冠様式」とよばれるモニュメンタルな建造物が計画され、実行に移されたのだが、そこで著者は、丹下健三が続けさまにコンペで当選した「大東亜記念営造物」(1942)、「日泰文化会館」(1943)、「広島原爆記念公園」(1950)に注目する(いずれも岸田日出刀が審査員)。
 そして、これを批評した浜口隆一がそこから「日本国民建築様式」という新たな概念を引き出したこと、堀口捨己が「建築における日本的なもの」(1934)で西行の和歌をあげつつも、「岡田邸」などでは一本の線の両側に西洋近代と伝統日本を象徴的に並列させる分裂統合的なデザインをしたこと、当時の知識人を糾合させた「近代の超克」議論がこの時期の「日本的なもの」を模索していたこと、やはりそのころから丸山真男が日本政治思想研究にとりくんで西洋政治との決定的な相違の炙り出しを試みていたことなどをあげ、いったい「日本的なもの」は外部の視線がなくては、その内部の組織化がすすまないのか、すなわち「他者」が必要なのかということを問うた。
 堀口捨己が「日本的なもの」の表現の代表例としてあげた西行の和歌は、有名な「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」である。伊勢神宮を訪れたときのものだ。
 ここには「何事のおはしますかは知らねども」というように、「それが何であるかを指定はできないが‥‥」という留保のような、あえてそこを問うまいとするような、つまりは不確定で未確認な「‥‥」に対する畏敬がうたわれている。
 いったいこの未確認の「‥‥」が「日本」や「日本的なもの」なのだろうか。なんだかこれではとりとめもないが、ひょっとするとあえて取り纏めをしないことが「日本」だったかもしれない。もしそうだとすれば、ここには別の「外部」や「他者」が介在しているとは言えまいか。ここでの「外部」や「他者」は西洋的な実体的な介在者も隣接者や闖入者ではなくて、日本自身がそもそも抱えていた内部的他者のようなものであって、それは「異人」とか「奇遇」とか、あるいは折口信夫がいうような「マレビト」のようなものかもしれないとは言えまいか。
 それならわれわれは、フェノロサやタウトの外部の目に依拠して考えた「日本的なもの」以外の目で、「日本的なもの」を考えなおすべきだということになる。そしてこのことこそ、磯崎新が長らく考えてきたことだったのだ。
 著者は若いころから建築家として次の疑問をもってきた。それは、日本にはそもそも西洋的な「広場」が定義しにくいこと、それをあえて定義するには「界隈」とか「あたり」を持ち出すしかないこと、神も人格神や形象神ではなくて気配のようなものであること、その神が到来するというヒモロギ(神籬)やニワ(斎庭)ですらシメナワ(標縄)で仮に区切ったような結びの場でしかないということ、結局、そうした日本の観念や精神の因ってきたるところを言及しようとすると「ヒ」(霊魂性)とか「チ」(生命性)としか言いようがなく、その表示を具象的な形にしようとすると、「妻入り」や「平入り」や「てりむくり」のような形の組み合わせでしかあらわせないこと、などである。
 こうしてイセやカツラが本格的に検討された。本書はその思索のあとを克明に再現してくれている。話をイセに絞って、著者の辿り着いたところをかいつまんで紹介しておきたい。
 日本の建築界が伊勢神宮に関心を寄せ始めるのは1930年代に入ってからだった。「伊勢神宮こそ全世界で最も偉大な独創的建築である」というタウト・ショックが動いている。天沼俊一・伊東忠太・堀口捨己・太田博太郎・丹下健三・川添登らがイセを論じた。
 著者はしかし、イセにあるものは式年造替に象徴される「始原のもどき」ではないかという興味深い仮説をたてた。論旨を飛ばして紹介する。こう、書いた。
 イセにおいては、実はなかったはずの起源が《隠されている》 からこそ誘惑が発生するのだ。建造物、祭祀、歴史的成立の事実そのすべてが《隠されている》ことこそがイセという問題構制の基本となるというべきなのである。
 いいかえると、地上に建てられているイセの神宮建築そのものは、その始原より以前を《隠す》ために建てられている、と言うべきなのだ。起源を《隠す》ことが図られた。そこに祭られているカミもまた、《隠される》ことを必要とした。そこで《隠す》ための手段が解発されたとみるべきで、それがイセの神宮建築のデザインを決定づけているといえるだろう。
 正殿のデザインがクラとして用いられていた高床の校倉造りであるのは、倉庫こそが隠されることの隠喩であるから、建築型としてまったく適切な祖型たりえている。カミの依代としてのイワクラ、そしてカミを招来する依代を収めるタカクラ、ここでのクラは言葉の字義は倉庫であるが、同時に暗闇でもあり、座でもある。
 なるほど、と唸るような推察だ。著者は、ここには一種のナラティヴを伴う「始原のもどき」があると見た。
 たしかに、そうだ。イセには「始原のもどき」や「始原というモドキのための装置」がある。擬態といえばたしかに擬態だろうが、それは始原を隠すためのモドキ(擬)としての擬態であって、そうすることが「始原が起源を虚像のように浮かばせてしまう装置」だったのである。西行が「何事のおはしますかは知らねども」と言ったのも、そこに感じたものも、これだった。「‥‥」である。
 ではイセでは、なぜ《隠されている》ことが、そこに《あらわれている》ことになるのだろうか。「日本的なもの」とはこのことなのだろうか。イセ的なるものはほかにはないのだろうか。
 おそらくイセ的なものや「始原のもどき」は、日本文化に始終あらわれては消えていったものだったといえるにちがいない。西行だけではない。西行—世阿弥—利休—芭蕉の線上には、この「知らねども」や「‥‥」が必ずあったし、藤原隆信の似絵にも道元の禅にも、人形浄瑠璃にも写楽の浮世絵にも、これが出入りした。“これ”とは何かといえば、「始原のもどき」への姿勢にあらわれる日本人の感受性のことである。その姿勢には、世阿弥や道元や芭蕉がのべた「触れるなかれ、なお近寄れ」という閑居の気味があった。
 だから「触れるなかれ、なお近寄れ」は日本人の主義主張なのではない。イデオロギーではない。近代日本では見失ったがゆえに、フェノロサやタウトなどの外圧を借りなければ見えなくなった思想というものでもない。何かを説得しようとはしていないものなのだ。いわば芭蕉のごとく「松のことは松に習え」と言っているだけなのだ。まことに不思議な「触れるなかれ、なお近寄れ」であって、「始原のもどき」なのである。ぼくならばただちに「負の装置」とよびたいものなのだ。
 しかしもう少し突っこんで「始原のもどき」や「負の装置」に出入りするものの正体を求めるなら、そのひとつはおそらくは、ぼくが第483夜の山本健吉の『いのちとかたち』や第564夜の丸山真男の『忠誠と反逆』で注目しておいた「イツ」(稜威)ということなのだろうと思われる。
 山本はイツを「よみがえる能力を身にとりこむこと」とか「生きのびる力の根源になる威霊を引きこむこと」と解釈した。それを設定することが、その後の継承を可能にしていくような力のことである。丸山は本居宣長を引きながら、イツを「つぎつぎに・なりゆく・いきおひ」と解釈し、それこそが日本の歴史古層にあるパッソ・オスティナート(持続低音)だとみなした。そして、そのイツが動くとき、あるいはそれに触れようとするとき、近代日本はそれを復古主義や国粋主義として過誤してしまったのだと考えた。
 出入りしたのはイツだけではない。そのほかにウツ(空=充)も出入りしたし、ミツ(満=密)も出入りした。
 いずれにしても、このようなイツ的なるものは、近代の西洋知だけでは光があてにくい。論理や言説のかたちをしりにくい。なぜなら、それは戦争や知識の外圧によって凹んだ影の部分なのではなく、そもそもそのような負所をもとうとして抱えたマイナスのCPUであるからだ。そして、その負の本来に触れようとすると、とたんに国粋主義になってしまったり、ナショナリスティックな追憶に見えたりするものなのである。
 しかし、ときに重源や桂離宮においては、光悦の器や友禅斎の雛型においては、世阿弥の複式夢幻能や近松の浄瑠璃においては、そのイツやウツやミツが「始原のもどき」のモドキとして、《隠れているもの》が《あらわれているもの》になった。こうして「日本的なもの」は建築と器物と芸能を行き来する。
 著者は「あとがき」で、「日本的なもの」という問題構制が成立したのは、日本群島が国境線が海に消える島国のせいだったからだろうと書いている。
 たしかに日本は、都合と場合によって、海の出入り口である港を閉じもでき、開きもできた。その閉じているあいだに、和様化が進み、茶の湯が生まれ、浮世絵がメディアとなって、国学が勃興した。これは島国のメリットとデメリットを最大限にいかした方法とその成果であったのだろう。けれども今後は、もはや閉港はありえない。空港封鎖もおこるまい。まして情報ネットワークの封鎖は不可能である。このようなとき、むしろ日本は、世界の群島化を促進する一部というふうにさえなっていると著者は言う。
 開港で思い出したのだが、『見立ての手法』のなかに「開港した日本の建築」という文章があった。丸山真男が日本にはイエズス会士渡来による開港、明治維新の開港、1945年の敗戦による開港という三度にわたる開港があると言ったことを引きながら、三度目以降はそのまま開港しっぱなしになっている日本のなかで、現代建築がなぜ「日本的なもの」を色濃く残響しているように海外の目からは見えるのかということを問うている文章だった。
 1985年に、ボトンド・ボグナーの日本現代建築調書について述べたときの文章である。その最後で、建築家は日本的なものの解読をつねに先延ばしにしすぎてきたのではないかという指摘をしていた。いま思い返すと、磯崎新はこのときの課題を結局は、その後も自分で全部引き受けたということなのである。
 磯崎さん、日本の建築思想を背負うって大変なことなんですね。今後は、若い世代が、堀口捨己〜村野藤吾〜磯崎新という解読をしてくれることでしょう。重野哲寛さんも亡くなられたこと、磯崎さんの痛む腰をいたわる医師は、これからは複数に、非線形に拡大するしかありません。
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by j-sense | 2007-09-16 12:20 | □日本的なるもの
関西無常文化総合研究所
氏 名 :やすだ じゅん 
生年月日:1967年5月19日 
現住所 :京都市  職 業 :表向き会社員

日本的なるもの1

 哲学の道から東へ少しきつめの坂を登ると、鹿ヶ谷とよばらる一帯に出る。鹿ヶ谷の森は静かに、そして鬱蒼と繁り、法然院の静寂を演出している。その法然院の参道に沿って歩くと墓地に入る。この墓地には名士とされる人々の墓が多く、京都をこよなく愛した作家、谷崎潤一郎の墓もここにある。谷崎ファンの墓参が今も絶えない。 
 その谷崎の墓のそばに瀟洒で格調のある墓が建っている。「九鬼周造之墓」墓碑名には西田幾多朗によって書かれたもので、その側面にも西田によって訳されたゲーテに詩が一句彫られている。
 「見はるかす 山の頂 梢には 風も動かず 鳥も鳴かず まてしばし 汝も休はん」
 何の衒いもなくたたずむその墓は、参る者に不思議な透明感を与える。 
 九鬼周造。『「いき」の構造』や『偶然性の問題』などで知られる異色の哲学者である。大正から昭和初期にかけてヨーロッパを遊学し、ヨーロッパで最先端の方法論を高い水準で理解し、「日本的なるもの」を考え続けた人。後は近代日本をその身をもって生きたのである。 
 そんな九鬼の哲学は二元世界といわれる。東洋と西洋。江戸とパリ。東京と京都。偶然と必然。禁欲と享楽。そして、男と女。彼はその間にすべり込み、軽やかに自らの哲学を展開した。観念論であろうとマルクス主義であろうと弁証法が哲学の中心であった当時の日本にあって、そのスタイルがかなり異色であることは肯首できよう。 
 その九鬼が法然院に葬られている。これは彼自身の遺言によるものである。ここに九鬼自身の精神史におけるスリリングな展開が想像できる。 
 彼は若き日から死に至るまで、ヨーロッパの詩歌における「押韻」と同様、日本の現代詩歌における「押韻」について考え続けた。しかし、その試みは日本語にどこまでも違和感を残し、結局現代詩に押韻を基礎づけることに失敗してしまった。その彼が死に際して浄土教に身をゆだねたのである。 
 鈴木大拙に従えば、外国からの輸入物ではじめて日本的霊性を表現しえたのは禅と浄土教である。本来、浄土教は此岸にありながら念仏を唱えることで彼岸を想う密教的営みをさす。しかし、法然が浄土の冥想から念仏者の主体へ問題を転換した時、浄土教は日本的となったのである。 
 ところが、中沢新一の説くところによれば、禅と浄土教以後、「日本的なるもの」を表現しうる思想的輸入物がみあたらない。マルクス主義もアメリカニズムも日本的となりえず、そのままマルクスやヤンキーであり続けたのである。九鬼はその「日本的なるもの」の課題に挑み、挫折し、そして日本人として再び浄土教に出会ったのだ。日本的なるものの可能性はついえたか否か、九鬼の墓はそう問いかける。 
 九鬼周造と浄土教。不思議な取り合わせだが、重要な意味を持っている。

日本的なるもの2 

 日本人が示す美意識を探っていくと、その時代でいろいろな相貌を見せてくれて、非常に楽しいものがある。そして、それ以上に楽しいのは、美意識が日本人の思想を鍛え上げる瞬間が垣間見られるときである。例えば、茶の道を通して「生き方」を示した千利休などはその良い例であろう。しかし、今回は文芸の領域から越境していった二人、本居宣長と松尾芭蕉をダシにそのことを示してみたい。 
 本居宣長が中国の思想というものをひどく嫌っていたことは広く知られているところである。彼には中国の思想家は「さかしらをのみ常にいひありく国の人」で、人の情をいつわってまでも大げさで仰々しい概念を作りだし、やたらに「こちたく、むつかしげなる事」をふりまわす人として映っていた。つまり、中国の思想はあまりに概念的、抽象的思惟でありすぎて、事物にじかに触れる、生々しい思想ではないと宣長は判断しているのである。 
 では、それに対して事物にじかに触れる認識方法を宣長はどう説くか。世に有名な「もののあはれ」がそれである。「もののあはれ」を知るとは、「何事にまれ、感ずべき事にあたりて、感ずべき心をしりて、感ずる」ことをいう。生きた事物を自然で素朴な実存的感動を通じて深く心に感じるのである。そして、「たとえば、うれしかるべき事にあひて、うれしく思ふは、そのうれしかるべき事の心をわきまへしる故にうれしき也。(中略)されば事にふれて、そのうれしくかなしき事の心をわきまへしるを、物のあはれをしるという也」要するに「物の心をしる」のである。しかし、事物に接し、「ああ、はれ」と情(こころ)が感(うご)くことを絶対視したこの認識論は、事物を何の媒介もなく一挙に直接把握する方法を示し得た点では評価できようが、事物それ自体は永遠不変であることが大前提になっているところに疑問が生ずる。あくまで感くのは情であって、事物は事物そのものでしかない。つまり、美とよばれるものは伝統的に決まっており、その形は永遠不変だというのである。 
 しかし、そんなことがありえるのだろうか。実際、我々の感覚から言えば、美には流行(モード)があり、その時代、その風潮によって大きく左右されているように感じられる。そして、その感覚からくる疑問は拭い難いもののように思われるのである。
  夏草や兵どもが夢の跡
 こう詠むことができた松尾芭蕉は現前する事物が永遠不変でないことを自覚していた。芭蕉の場合、「をのれが心をせめて、物の実しる事」と一見宣長に似た主張をするのだが、きりかえして次のようにもいう。「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」そして「その境に入って、物のさめざるうちに取りて姿を究」めなければならないのである。美はその姿を不変に示し続けるのではなくて、たった一瞬の、ひらめく存在開示なのである。そこでは、いつ美が輝くか、どれが美であるか、微に入り注視する必要があり、その一瞬の輝きを表現する詩的言語の訓練が必要になってくる。そして、芭蕉はその方法論として旅に暮らし続けることを選んだのである。時間をかけ、自ら移動し、スケッチするように言葉を紡いでいくその方法論は、美の多様性に素早く反応することができ、さまざな表現を示すことができる。そのフットワークのよさは注目に値する。 
 ときに日本的なるものということは、沈潜する思考をイメージされることが多い。禅者がもつイメージが横滑りしているのだろう。しかし、日本の思想的可能性は芭蕉のようなフットワークの軽さを示すこともある。もちろん、役行者や空海といった山岳修験者のフットワークのよさは気づかれているが、彼ら山岳修験者もやっと仏教学や宗教学という狭い枠から抜け出たところで、まだまだこれから新しい研究が待たれるものである。そして、「日本的なるもの」のフットワークのよさが「風狂」という芸術的な姿として芭蕉に現れたことにももっと注目していってもよいのではないだろうか。

日本的なるもの3

 「個人あって経験があるのではなく、経験があって個人あるのである。」 
 こう言われて困惑を覚えずにいられるだろうか。西田幾多郎の著作を読む者は、この種の困惑を常に経験していかざるをえない。なぜなら、常識と考えられる思考はおろか、日本語の文法が破壊されているからである。経験があって個人があるだって!? 冗談じゃない! 気が狂ってしまいそうだ! 
 一般に西田の難解さには定評がある。有名な『善の研究』などはまだましな方である。膨大な量の論文集などは、何頁にも渡って何が書いてあるのか分からないことは屡々であり、時には論文で扱われているはずの主題がまったく出てこないまま、混乱に叩き落とされることもある。いったい何がここまで混乱せしめるのだろう。 
 和辻哲郎が語ったように、日本語で哲学することは非常に難しい。これは西洋哲学を専門とする者が遅かれ早かれ実感することである。そこで和辻や九鬼周造などは、己の詩的才能を導入することで、その問題の解決を試みた。つまり、あきらめた、のである。したがって、彼らの著作は読みやすく、一種文学的風雅が漂っている。 
 しかし、西田は違った。彼の思い詰める性格も手伝って、何がなんでも日本語で哲学しようとしたのだ。それも、大胆な造語を行なったのである。いや、造語をするのはまだいい。西田の場合、カント哲学を下敷に造語がなされたところに悲劇がある。カントの著作をドイツ語で、いや、翻訳でいい、読まれたことのある方にはお分かりいただけるかと思うが、その専門用語のオンパレードには少々辟易とさせられる。又、カントの書く一文がとにかく長いことも有名である。しかし、カントは思考されたものは一旦整理して書く性格であったので、じっくり読めば分からないものではない。 
 明治の終わり頃、新カント派の哲学がアカデミズムを席巻しはじめたことも手伝って、西田もカント哲学の枠組みで思索することになったのだが、彼の場合、その枠組みの乗り越えが主題とされたのである。したがって、その道ゆきは、日本人には少々難解な専門用語の中で、ものの見方の変更を迫っていくこととなる。 
 カント哲学では、我々人間の主観がどのように物自体を認識するかが問題となっており、結果、物自体は認識しえず、主観が物自体の諸現象を構成するのみとされる。いわば、人間の認識能力を限定づけると同時に、人間の自我の働きを基礎づけた。しかし、認識能力の限定がなされているものの、その自我の働きが持っている独断性は否定されえない。そして、認識以前の物自体はいったいどうなるのか疑問の残るところである。 
 これに対して西田はこう言う。 
「既に知識は或る立場からの構成であるとすれば、与えられた或物がなければならぬ。是において物自体とは知識の原因という如きものではなくして、概念的知識以前に与えられた直接経験という如きものとならねばならぬ。」 
 この経験を西田は「純粋経験」と呼び、冒頭の言葉につながっていくのである。 
 カントの場合、精神(主観)と物体(客観)とは互いに全く違う法則性をもつものとされている(物心二元論)が、西田の場合、主客未分の直接的な経験の立場から、精神と物体は同じもので、その見方によって精神や物体となって立ち現われるとされる。この西田の立場は、論理的にいけば何をいっているかさっぱり分からないが、日本人の普段の生活を考えると、時折感じる何かを言い当てようとしてとしているように観じられないだろうか。例えば、松を見たときの何か、川の流れに眼を奪われたときの何か、鼓の一打を聴いたときの何か。その何かの直観が西田にはあったのではないだろうか。(もちろん、西田自身の参禅も見逃せないだろう。) 
 西田はこの直観を文学的表現で言い表わすのでなく、ヨーロッパの思想によって鍛えた日本語の文法をもって表わそうとしたのである。しかし、その試みが西田の文章を難解にしている。 
 「物来たって我を照らす。」 
 「生きると云うことは、客観的制作にあるのである。我々の生命が身体的と考へられる所以である。」 
 「相対が絶対に対するという時、そこには死がなければならない。我々の自己は、ただ、死によってのみ、逆対応的に神に接するのである。」 
 こうした文章は、やはり難解と言わざるをえない。 
 しかし、読み手が自らの問題を持って読むとき、これら難渋な文章が輝きを持って立ち現われるのである。構造主義のパッションをうけて、今、西田が世界で読まれはじめている。この世界性が「日本的なるもの」の思想的可能性の一表現である。三木清は「西田哲学と根本的に対質するのでなければ将来の日本の新しい哲学は生まれてくることができないように思われます。」と言う。その言葉を励みとしつつ、一方で脅迫感じながら、西田の論文集を眼の前にして、私は腕組みをしたまま動けないである。はたして読み続けるべきか否か・・・・・・・
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by j-sense | 2007-09-16 11:55 | □日本的なるもの
日本的なるもの4 

 関西大震災では、結局五千人を超える死者が出た。冥福を祈ると共に、被災地の一早い復興を願ってやまない。 
 その震災の大騒動にまぎれて、先日、神奈川県逗子市で一人の哲学者が亡くなった。西田幾多郎の最後の高弟、下村寅太郎である。享年92歳。老衰による死であったとのこと。世の中の大騒動をよそに、静かな大往生である。 
 下村寅太郎にはいくつかの顔がある。まず一つは、数理哲学者としての顔。元来、彼は数学者で哲学者であるライプニッツの研究が専門である。日本のライプニッツ研究は彼から始まり、彼を越える仕事を残した者はいない。現在刊行中のライプニッツ全集の監修を務めていたはずであるが・・・ 
 その次に、西田幾多郎の弟子としての顔。岩波文庫に収められている『善の研究』の解説は下村によるものである。彼は西田哲学に、西洋哲学の焼き直しではない、唯一、日本独自の哲学の姿を見てとっていた。西田の死後、西田哲学は西谷啓治によって宗教学の方向を強めていったが、私には数理的な立場に踏みとどまっている下村の方が健全であるように思われて仕方がない。 
 次に、優れたヨーロッパ研究家としての顔。『レオナルド・ダ・ヴィンチ』『アッシジの聖フランシス』『ルネッサンス的人間像』など、一般読書界にも広く知られる著書を残している。私自身、彼の著書がなければ、アッシジの小さき花に出会うことがなかった。彼はヨーロッパを普遍的な確固たるものとしてとらえるのではなく、時代的な特殊性としてとらえていた。したがって、膨大な資料を駆使しながら、時代を生き抜く人々を描き出すその筆致は、さながら歴史家のようである。特にルネサンス前後にその興味を注いでいたのは、その仕事を見ればよくわかる。彼はヨーロッパ近代が抱える重要な問題の分水嶺がルネサンスにあることを読み取っていたのである。 
 そして最後に、シンポジウム「近代の超克」出席者としての顔。昭和17年、雑誌『文学界』の呼びかけにより、「文学界」グループ、日本浪漫派、京都学派の三派から13人の知識人たちが集い、大東亜戦争の思想的意義をめぐって討論された。 
 下村も京都学派として、西谷啓治や鈴木成高などと共に、小林秀雄、河上徹太郎、亀井勝一郎等との討論に参加したのである。よく知られるように、このシンポジウムは伝説的に悪名高いものであり、戦後、何度も大東亜共栄の理論づけをしたとしてヤリ玉にあげられてきた。70年代以降、その内包する問題意識の批判的継承が唱えられ始め、一概に否定しきれないが、戦中、戦時イデオロギーとして利用されてきた事実は覆い隠せない。しかし、そのシンポジウムにおける議論たるや、何か確固たる指針を示すことなく、ヨーロッパ近代を日本原理によって乗り越えねばならない、と繰り返すのみであり、散漫で発展的とは言い難いものである。 
 こうしたシンポジウムの中で、唯一、ヨーロッパ近代が抱える科学の問題をとらえることで「近代の超克」の本質を把握していたのが、下村であった。彼は、言語や論議による論証性を旨とする古代ギリシアの科学と区別して、近代科学が実験的方法による実証性を旨とすることを指摘する。そして、その実験的方法がいわゆる魔術の精神と同一のものであることをえぐり出して見せたのだ。「自然を拷問して口を割らせる。」下村は近代科学を特徴づけてこう言ってのけたのである。こうした実験的方法を生み出す近代精神を問題にせねばならぬ、これが彼の主張であった。 
 ところが、彼の主張はたちまち横に置かれ、シンポジウムは空論を極め、その後、二度と近代科学の問題は真正面に考えられることなく戦後を迎えてしまった。むろん、戦後も科学の問題は据え置きのままであった。このことは日本思想の近代的弱点であろう。近年、ようやく日本でも近代科学の問題が議論されるようになってきたのだが。 
 こうしてみてくると、彼はヨーロッパを根本から理解しようとした人であることがわかる。そして、それは日本が明治以降、その内部に抱えることになった「近代性」をどう処理していくか、というところにつながっている。今の我々には非常に刺激的なことではないか。また一つ、大きな先達を失ってしまったようだ・・・・・ 
 

日本的なるもの5

 今年に入ってからというもの、仕事や雑事に追い回されていたせいか、このところ「隠居」というものに憧れを抱いている。お昼近くに目を覚まし、日にあたりながら縁側で庭をながめ、たまに庭をいじる。夜は夜で、適当な肴で酒をなめ、三味をチリトテチン。夜の淵に酩酊の末、入滅。この生産性のなさがなんともいえない。 
 「隠居」といっても、この社会の通念上では、年を喰えば誰でもいやがおうにも隠居とみなされる。隠居=じじ・ばばなのである。しかし、私がここで考えているのは「若隠居」。30にも満たないガキが何をいうか、と思われるだろうが、私自身、今すぐにでも隠居したいのである。隠居に年齢は関係ないのだ。 
 そこで、若隠居三年目を迎えた杉浦日向子女史が推薦する若隠居のお手本、『花暦八笑人』をひもといてみた。これに出てくる若隠居の名は佐次郎という。彼は名のある大店の長男として生まれたのだが、「生まれついての呑太郎、年中続く夕部け(二日酔いのこと)に、うくる家業もうるさしと、弟右之助に相続させ、おのれは隠居の身となりて、心のままに不忍の、池のほとりに寓居」といったあんばいである。そして、その佐次郎のもとに集まる7人の呑助どもと季節ごとの茶番を繰り広げる。特に、春の花見での茶番は「花見の仇討」という落語としても有名である。 
 とにかく、彼らは世の益にならない、本当にくだらない茶番に命を賭ける。「花見の仇討」では、花見の場で仇討の茶番を仕掛けるつもりが、勘違いして助太刀をかって出た武士に切り殺されかけたほどである。そこには殺されかけた恐怖よりも無意味な茶番のスラップスティック性が前面に出されている。ここに太平の世、刺激の少なかった江戸の余裕やおおらかさがある。 
 このおおらかさの象徴のような佐次郎は、いわば江戸という都市に住む有閑人。加えて、作者の滝亭鯉丈も江戸中期の旗本の婿養子、立派な有閑人である。つまり、どうしてもやらねばならぬ公務もなく、その日の暇を物臭に、億劫がってくらしていたのだ。 
 私は以前より、この物臭、ぐうたらが日本を特徴づけるものの一つに数えられるのではないかと考えていた。もちろん、世界的にみれば、樽の中で気ままに暮らしたディオゲネスや、自らの庭園で仲間と共に静かな悦楽を求めたエピクロスがいる。東洋にも仏教思想や老荘思想のようなある種の「ぐうたら哲学」がある。日本的ぐうたらもこの東洋的ぐうたら思想の影響を多少なりとも受けているだろう。しかし、そうした思想的影響を受け入れる基盤として、日本人の生活環境が考慮されねばなるまい。それは都市の円熟ということと深く関係しているのである。 
 『八笑人』が書かれた文政年間は、江戸という都市が経済的に整備され、情報の中心として機能し、都市として完成を極めていた。そうした都市では居・食・住が苦もなく身の回りから手に入り、今まで生きるために費やされていた生産の時間が余ってくる。都市で生活している限り、多少ゴロゴロとぐうたらをしていても、まず死ぬことがないのである。だからこそ、佐次郎は思い切った茶番をうてたのだろうし、落語に出てくるような留さん、熊さんなども物臭に暮らせたのだろう。 
 これは江戸時代に限ったことではない。室町期に「物臭太郎」というお伽草紙があるが、これも室町期に京都という都市が円熟を迎えていたことと深く関係している。谷崎潤一郎が推察するように、当時の零落した公卿が自分のぐうたらな生活を暇つぶしに書いたと考えられる。 
 今、日本は全国総都市化している。日本という国の隅々までが都市化しようとしているのだ。バブル崩壊後の地方を基盤とした経済活性、マルチメディアの整備による情報流通。江戸だ、京だ、大坂だ、という区別なく、日本人はどこにいても都市生活者である。この日本という都市の円熟がある意味楽しみである。なぜなら、その円熟と共に私も「隠居」したいからだ。しかし、その前に私自身の先立つものが・・・・・・・・

日本的なるもの6

 日本という国は何故「日本」という国なのだろう。「日本的なるもの」と題しておきながら、今までこの「日本」ということを明かにしておかなかったようである。日本の社会や文化を考えていくにあたって、そのことを示しえないのでは、論考自体に意味がない。今回その反省をもって、改めて「日本」ということについてまとめなおそうと考えた。しかし、あまりに問題が多岐に渡り、てんやわんやしてしまった。多少バタバタするが、その辺もあわせて示してみたい。 
 現在、我々の常識において日本の国を規定する場合、次の三点が主に主張される。
1、日本は四方を海に囲まれた、孤立した島国である。
2、日本は稲作によって支えられた国である。
3、日本は世界でも稀にみる単一民族の国である。
 これらの主張は、しかし、ちょっと考えてみれば大変矛盾した考え方であることが分かる。 
 まず1では、海による孤立を主張することで日本文化の独自的発展が考えられている。そして、この考えをつきつめる形で3の主張へとつながっていく。しかし、考古学、民俗学等の成果により、有史以前から列島の各地域で大陸との交流が盛んに行なわれていたことが知られるようになった。 
 環日本海沿岸の生活圏をはじめ、瀬戸内海の島じまと朝鮮半島との交流、琉球を中継点とした東シナ海文化圏など、世界の生活圏の中で日本列島は存在していたのである。つまり、1の主張のように海は大きな障壁ではなく、重要な交通路であったといえる。日本列島ではその諸生活圏の中でそれぞれの文化が発達し、互いに流通していたのである。 
 次に2。去年の米不足のおり、日本人の米に対するこだわりが非常に深いことが確認されたわけだが、その感受性=日本人となるのだろうか。一般に稲作一元論が主張される場合、「日本人の魂は稲を通じて大地の力をもらっている」といった類のことがいわれる。つまり、稲をして日本の宗教の核心を説明し、天皇家がおこなう新嘗祭が日本人にどれだけ重要かを説くのである。聖なる天皇を立てることで稲作=日本人を公式化しようとしているといえよう。 
 しかし、天皇をかつぎだすならば、供御人の存在が忘れられてはならない。供御人とは、海の幸や山の幸を直接天皇に貢献する集団のことである。網野善彦や黒田日出男などの研究で示されるように、天皇がおこなう儀式において、米が権力の分かりやすい象徴であるのに対して、海や山の初物が天皇権力の暗いマジカルな部分を受け持っていたとされる。又、そうした海民、山民の非農業集団が中世紀まで天皇家の直属軍事力として編成されていたことも注目に値する。建武の新政のとき、後醍醐天皇が悪党とよばれる非農業集団と結びついたのも、このマジカルな力を取りもどそうとしたといえる。さらに、天皇との関係を離れた後でも、この海民、山民は独自の流通経路を通じて楽市を組織するようになる。日本の都市性は彼ら抜きで語ることができない。 
 以上のように1、2をあわせて考えてみれば、3はおのずと否定されよう。事実、日本列島には、アイヌや琉球の民族が存在し、東北人を一つの民族と見る向きもある。この列島に住んでいるのが人間である以上、生活レベルで考えれば、日本は単一民族と簡単にいうことはできない。日本が単一民族であるとしてきたのは、畿内に発生した権力であり、その主張は皇国史観を構成するのにどうしても必要だったのだ。中曾根元首相の日本単一民族発言は単なる皇国史観の焼直しにすぎない。日本という国は民族によって建つ国ではない。 
 しかし、現在、我々日本人は日本列島に住むあらゆる人々にある種の均質性を感じている。この事実はぬぐい去れないものであろう。いったい、この均質性はどこからくるのだろう。 
 網野が指摘するように、それは律令制が列島の隅々まで行き渡ったことに原因する。律令制において、何よりも効力をもつものは書類であり、その書類がことあるごとに列島中に撒き散らかされるのである。 
 畿内の言葉が列島の権力空間における共通語となったことは想像に難くない。しかし、書類の文章は中国からの漢語を用いられることが多く、それだけでは役人だけの言葉で終わってしまうはずである。そこで網野は「ひらがな」の存在に注目している。 
 平安期にはいり、列島の権力空間がひとまずの安定がみられるようになると、女性の中から「ひらがな」が起こり、生活レベルでの共通言語として機能するようになったのである。「日本語」という均質性が生まれたわけだ。 
 確かに、言語を空間としてとらえることで日本の均質性を見いだすことができる。しかし、私はその「ひらがな」さえも受け入れた人々の感受性に注目したい。 
 元来、女性性という他者的なるものであるはずの「ひらがな」を受け入れることで日本という均質性を開いてしまう感受性。そう、私が「日本的なるもの」と呼ぶものは、まさにこれである。
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by j-sense | 2007-09-16 09:20 | □日本的なるもの
日本的なるもの7

 幼い頃のこと。毎年正月になると、近所の庭先に獅子舞が訪れていた。母はよく私を見に連れていってくれた。獅子舞にかまれるとその一年の厄除けになるといって、母は私の手をカチカチと音をたてる歯にかませていた。他の子供たちより泣き虫だった私は、かならずといっていいほど大泣きをしていた。 
 さて、獅子に手をかまれてもさほど泣かなくなった頃、獅子に扮している人が親しくしている近所のおっちゃんであることに気づいた。はじめてそのことに気づいた年は、酒屋のおっちゃんと裏に住むご隠居さんだった。役回りは毎年当番制だったようで、駄菓子屋のおっちゃんやそろばん塾の先生、友達の父親などが、正月ごとに獅子に扮していた。 
 私が不思議に思ったのは、獅子舞のあった日、その日一日中、その獅子当番のおっちゃんたちに、何か強い存在感が感じられたことである。これは私に限ったことではないと思われる。獅子舞は、その一日をかけて、町内あちこちの庭先で行われるが、行く先々で、子供たちが遠巻きで畏敬の視線をおっちゃんたちに投げかけている光景がよく見られた。しかし、翌日になると、普段と変わらない気さくなおっちゃんたちに戻っていたのである。いったい、あの異なるオーラは何だったのだろう。 
 そうした印象は、実のところ年を経ていくうちに薄れていったのだが、大学時代、バリのバロンダンスを見た瞬間、それらのことが意識の表舞台によみがえってきた。 
 バロンとはバリ島における善の精霊のことをさす。その姿はギョロっとした目玉に大きく開く口、するどい牙と威嚇する角。小刻みに震えるその体はまるで内からわきたつ力を押さえ切れないかのようである。その与えるインパクトは南国特有の刺激でむせかえるようだが、根本にあるものは日本の獅子舞に似ているな、と感じていた。 
 後日、バロンダンスと獅子舞の関連性について書かれた文章を見つけたとき、すくなからず、我が意を得たりと感じた。その内容をごく簡単に言えば、人間の生活世界に善をもたらそうとする強力な力がバロンという姿になり、その姿が東南アジアから黒潮に乗り、東シナ海沿岸のアジア諸国に広まった。伝播した地域でもその姿は、人間の幸せを求める力と結びつき、日本でも正月などの節目に祝いの舞として獅子舞が行われるようになった、ということである。 
 その後、バロンダンスと獅子舞に関する資料をいくつか見たが、それらを総合してみると、バロンも獅子舞の獅子も、生活世界におけるケガレを浄化するカミとして考えられていることに間違いはないらしい。そう、獅子舞はカミによる浄化と祝福なのである(ことわっておくが、ここでいうカミは一神教的な神ではなく、古来より人間が自然の力に対して持つ畏敬の念が生み出したアニミズム的なカミである)。そのカミの仮面をもっておっちゃんたちは演じていたのである。 
 そこで注目したいのは、仮面のもつ威力である。おっちゃんたちは、ただカミの仮面をかぶるだけで、私を畏れさせた。つまり、仮面をかぶることで、おっちゃんたちはカミのように現実より強い存在となったのである。獅子舞をするおっちゃんの、あの何ともいえない存在感、どうも近づき難いオーラは、獅子舞の仮面が元来もつカミ的な力によるものだったのだ。翌日、普段通りのおっちゃんたちに戻ったのも、この仮面をはずしたことに原因するといえる。 
 しかし、人間の存在というものは、なんとも多様で脆いものか。カミの仮面をかぶることで超地上的なカミの領域へと開示されたり、会社である役目を与えられれば一端の社会的な人間になったりする。日本というアイデンティティを与えてやれば誰でも日本人なのである。(日本人とは仮面のことなのだ。) 
 話を戻そう。現在、獅子舞を見ようと思うと、少々苦労して探さねばならない。生活世界の構造が変化したため、当番制で獅子舞を行うことが少なくなり、ましてや獅子舞を生業とする芸人もほとんどいなくなった。つまり、ケガレを浄化するメカニズムが今の日本の共同体には失われているといえる。昨今の新・新興宗教がさらけ出してくれた歪みも、そのことと通底している。その歪みから学ぶものは多い。第二・第三のオウムを生み出すなかれ・・・

日本的なるもの8

 ドイツの哲学者カール・レーヴィットが来日したのは昭和11年だった。ナチスがドイツの政権を握り、ヨーロッパを破滅に導こうとしていた頃である。レーヴィットはユダヤ人だったため、ドイツに留まることが不可能になった。 
 そこで、東北帝国大学の招聘を受けて、わざわざ東の果てのこの国までやってきたのである。その後、彼は昭和16年まで滞在し、太平洋戦争の開始とともにアメリカに渡ってしまった。 
 そうした事情で、多少なりとも日本を知るレーヴィットに「日本の読者に与える跋」という文章がある。『ヨーロッパのニヒリズム』という著書の日本版あとがきに寄せられたものである。 
 『ヨーロッパのニヒリズム』はレーヴィットが生涯のテーマとした、人間の自己確信が崩壊する道行を哲学史に位置づけるものである。自己意識を全体的な意識にまで拡張し、その巨視的な視点からすべてを説き明かしたと信じるヘーゲルから、「神は死んだ」と叫ぶことですべての価値判断を無効にしたニーチェまで、ヨーロッパのアイデンティティが失われる姿をレーヴィットは描き出した。彼はその自らの行為を「ヨーロッパ的自己批判」と呼び、ヨーロッパにおける、それまでとは違った人間の在り方を模索したのである。 
 しかし、その返す刀で彼は日本を批判する。日本の何を?つまり「日本的自愛」を! 
 「前世紀の後半において日本がヨーロッパと接触しはじめ、ヨーロッパの 
'進歩'を嘆賞すべき努力と熱っぽさをもって受け取ったときは、ヨーロッパの文化は、外的には進歩し、全世界を征服していたとはいえ、内実はすでに衰退していたのである。(中略)その時はもうヨーロッパ人はその文明を自分でも信じなくなっていた。しかもヨーロッパ人の最上のものたる自己批判には、日本は少しも注意を払わなかった。」 
 日本はヨーロッパから産業と技術だけを学びとった。つまり、日本のものの考え方、風習、ものの評価というものはそのままに、外面的にヨーロッパの技術を身に纏ったのである。そして、ヨーロッパ的外面の矛盾に気づくやいなや、簡単に打ち捨てようとする、あるいは自らの内面の働きでよりよき「日本とヨーロッパの統合」を作り上げようとする。しかし、ヨーロッパ的外面はそれを着ることで内面までその矛盾が蝕んでくる代物だったのである。今なお続く宗教上、道徳上、社会上の矛盾をみれば、その浸透性に気づかされる。 
 したがって、日本はヨーロッパのニヒリズムに真っ向から向き合わねばならないはずである。しかし、それにはヨーロッパの書籍を研究し、知性の面のみで理解するだけではいけない。レーヴィットは当時の日本の学者を指してこういう。 
 「彼らはヨーロッパ的な概念--たとえば'意志'とか'自由'とか'精神'とか--を、自分達自身の生活、思惟、言語にあってそれらと対応し、ないしはそれらと食い違うものと、区別もしないし比較もしない。」 
 日本の学者は他なるものの中から自らを問題にすることがないというのである。彼らはものごとを日本的に感じたり考えたりしているのに、外面的にはヨーロッパの概念をふりまわす。そこには自らの体験への自己省祭なり、自己批判がない。この点をレーヴィットは「日本的自愛」と呼んだのである。 
ヨーロッパにおけるゲーテやニーチェ、ボードレールのように、自己および自己の国民を問題にする日本人が果たしてあるのだろうか、彼はそう問いかける。 
 そうした批判は実際のところ、今でも有効性を失っていないと思われる。 
 戦後50年間、ドイツでは自らの内に抱え込んだナチズムという問題を徹底的に考えてきた。戦犯に対しては執拗な追及がなされ、被害者に対しては可能な限り保障を行ってきた。解決つかない問題は山ほど残っている。しかし、民族に宿るナチスの火を克服しようと全力を尽くしてきたのである。 
 しかし、日本では近年の従軍慰安婦問題をはじめ、近隣諸国への謝罪・保障、靖国問題等、ほとんど無視の状態が続いている。ようやく国会セレモニーとしての「戦後50年国会決議」なるものが表面化したが、結果は周知の通り、ていたらくなものである。 
 日本は「民主」を、「平和」を、「共生」を、そして「戦後」をいかに学び、いかに考えてきたか。いや、いかに学ばず、いかに考えてこなかったか・・・

日本的なるもの9

 ふだん、我々はことばというものについてどのように考え、それをどのように使っているのだろうか。 
 現代のような情報過多の社会に生きていると、ことばは情報を表現する手段としてのみしか扱われていないのではないだろうか。この場合、情報の内容が大切なのであって、ことばそのものは手段としての役割以上に考えられていないといえる。 
 情報の収集と公開の速効性が問われる現代において、それは一面の妥当性をもっており、新しい表現知として今後の成果が楽しみな領域ではある。 
 しかし、ときとしてことばは表現手段としての役割とは違った姿を見せてくれる。たとえば、折口信夫の『死者の書』に触れるとき。
物の音。----つた、つたと来て、ふうと佇ち止るけはい。耳をすますと、元の寂かな夜に、----激ち降る谷のとよみ。 
 つた つた つた。 
また、ひたと止む。 
この狭い庵の中を、いつまで歩く、足音だろう。 
 つた。
 死者の足音が読む者をぎくりとさせる。 
 つた つた つた。滋賀津彦が死の淵からよみがえり、藤原南家の郎女にせまりくる足音。なんとも不意をついたことばである。 
 しかし、なぜこうもぎくりとさせられるのであろう。普通の足音であれば、誰かが歩いているのだろうとだけ感じる。ところが、この場合、死者がせまってきている、と確信させられるのだ。つた つた つた、という足音が、死者の到来を確信させるに足ることばとしてそこに存在しているのである。しかも、それは死者の到来を単純に描写しているというレベルを超えてそこに存在している。 
 「つたつた」というようなことばは、擬声語とよばれる品詞に属する。たとえば「ざあざあ」や「わんわん」「さらさら」など。擬声語とは物の音響、音声などをまねて作る語である。しかし、注意すべきは、擬声語はあくまで音をまねて作る語であることだ。つまり「ざあざあ」といっても、雨そのものの正確な描写ではなく、みんなも知っているはずのあの音、という了解のもとに作られているのである。いわば、「雨の音」という意味がたちあらわれるための基体として「ざあざあ」がある。擬声語はことばそのものの物質性を極めて純粋に示してくれる。 
 したがって、「つたつた」も、その物質性をもって我々に、郎女にせまってくる。読む者は、死者が庵の中を歩き回っているからぎくりとするのではなく、まず、その物質性に不意をつかれるのだ。 
 では、「つたつた」という物質的なことばからどういった意味がたちあらわれるのか。 
 死者がこの世によみがえるとき、死と生の間、つまり自然と人間存在の間に何かしらの橋渡しがおこなわれなければならない。折口はその介在する文化システムとして擬声語を使用したのではないだろうか。いや、「つたつた」という足音を発見したといった方がいいか。とにかく、死者はことばを伝って、ことばを踏みしめて近づいてきたのである。(そんなことを考えていると、先日出版された松浦寿輝の『折口信夫論』の中で同じようなことをいっていた。私の考えもそれほど突飛なことではなさそうだ)折口はその指先にもつ筆でことばという物質の上に死者を歩かせたのだ。そう、擬声語が死者の到来を確信させる。 
 郎女は刹那、思い出して帳台の中で、身を固くした。次にわじわじと戦きが出て来た。 
 ことばの物質性に不意をつかれ、次いで、死者の到来を確信して戦きを覚える。わじわじと。もう折口の張ったディスクールから逃れられない。郎女も読む者も、そして折口自身も逃れられない。郎女の戦きは私の戦きか? 
  
 なも、阿弥陀ほとけ
 戦きの中で郎女の唇から洩れた念仏。再び不意をつかれる。そう、ことばを伝って阿弥陀仏が救いにやってくる。郎女も読む者も折口も、そして滋賀津彦も・・・・・ 
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by j-sense | 2007-09-16 08:58 | □日本的なるもの
日本的なるもの10

 四国に生まれ育った者は、少なからず一度は八十八カ所の霊場めぐりをしたことがあるはずである。もちろん、八十八カ所すべてをまわったというのではなく、近所のお寺を参ると自然と霊場の幾つかをまわったことになるのだが。 
 四国高松に育った私も例に漏れず、香川から徳島、高知にかけての霊場にお参りをしたことがある。両親につれられて、車で日帰りできる範囲内のお寺をよくまわったものだ。 
 そんなあるとき、私は小学校低学年であったとおもうが、徳島のとあるお寺でのこと。朝から幾つかのお寺をまわり、少々疲れていた私がむずがったのだろう、両親は私を参内にある休憩所にあずけて、お参りにいってしまった。その休憩所ではお遍路姿の人たいが幾人か休んでおり、そのお遍路さんをもてなすお寺の人たちが忙しく働いていた。私はその風景の珍しさから最初ははしゃいでいたが、しかし、しばらくすると両親のいない不安から半べそをかいてしまった。 
 木製の長椅子に腰かけ、足をぶらぶらさせて、地面をみつめながら鼻をすする、そんな私をみて、一人のお遍路姿のおばさんが声をかけてきた。 
 「どうしたん? さみしいんか。さっきまで笑ろうとったのにのう。大丈夫やけにぃ、とうちゃんもかあちゃんもすぐ帰ってくるて。」 
 と言って、手にもっていたお札を私に渡しながら、 
 「ほれ、弘法大師さんもそばにいてくださってや、なんちゃじゃないで。」 
 えっ、弘法大師がそばにいる? 私がそのおばさんの顔を見上げると、ニコニコ笑っていた。妙に心休まる思いがして、なんとなく弘法大師がそばにいてくれていることを素直に受け入れることができた。 
 四国八十八カ所巡りがいまだに続けられている根底には、人々の弘法大師信仰が深く根づいている。お遍路さんはいつも弘法大師と共にあることを意識しながら歩く。どんなに険しい山道であろうと、どんなにさみしい夜道であろうと、いつも弘法大師がついていてくれる、だから安心して次のお寺まで歩いていける。 
 お遍路道沿いに住む人々はそんなお遍路さんに対して敬意をはらう。少しずつではあるが訪れた人には施しをし、疲れていれば休憩の場を提供する。彼らはお遍路さんに敬意をしめすことで、弘法大師に対して敬意をしめしているのである。 
 なぜ、四国の人々はそうまでして弘法大師を敬うのであろうか。 
 四国の人々、特に讃岐平野の人々が伝える弘法大師伝説は、空海という人の多様な姿を今に伝えてくれる。彼はまず宗教家として、八十八カ所の霊場を開くことで、形いまだくらげなす土着の民間信仰を仏教的にソフィスケートした。つまり、土着の宗教に明確な仏教的形態を与えることで、それをよりわかりやすいものにして、救済の空間を切り開いていったのだ。わかりやすいから誰もが入っていける、そこに大きなポイントがある。 
 しかし、彼はやみくもに霊場を開いたわけではない。空海は鉱物学者として、霊場そのものが地下資源の宝庫であることをつきとめてもいた。事実、四国山地に開かれた霊場の多くには、鉱脈が走っており、周辺地域の大切な産業になった。 
 さらに空海は土木建築の技術者としても伝えられている。讃岐平野は元来雨が少なく、土地が広々と余っているわりに稲が育ちにくい環境であった。特に平野中西部は水もちが悪く、何度耕作しても思うように収穫できなかたらしい。そこで日本一大きい溜池、満濃池と用水路が整備されたわけだが、その工事を指導したのが空海だとされている。 
 ここに宗教的、精神的指導者としての空海だけではなく、人々の普段の生活をありのままにとらえ、その根源からすべてを救おうとする空海の姿がある。だから、弘法大師信仰を口にする人々には、空海がお寺のえらいお坊さんだから尊敬するという意識はない。今あるありのままをそのまま救ってくれる、生活する中で救いを示してくれる、そんな親しみある尊敬の念をもっている。あの時のおばさんの笑顔がそのことを物語っていた。 
 あの日以来、私のそばには弘法大師がいてくれている。しかし、そのことが本来意味すること、弘法大師信仰がもつ救済の意味に気づいたのは、この京都に来て、親鸞の思想に触れてからではあるが・・・・

日本的なるもの11

 浮世之介は好き者である。自他とも認める好き者である。その浮世之介がある日思い立って、この際色道一切の奥儀を極めてみたいと考えた。そこで彼は誓願成就するよう笠森稲荷に祈願に出掛けた。 
 笠森山をようやくのぼりつめ、稲荷に祈願すると、仙女二人が現われて、浮世之介に仙薬を与えた。その仙薬飲み干せば、体みるみるうちに縮みゆき、浮世之介は豆男になってしまった。浮世之介これ幸い、その体で世の艶場をのぞいて色道修行にはげむことにした。 
 鈴木春信の春画本『風流艶色真似ゑもん』はこうしてはじまる。 
 春信は甘く上品な作風の美人画で知られており、私も知人に私信を送る際、その作風にあやかって彼の美人画の絵はがきを使用すること度々である。春信の甘く上品なイメージは、はじめてその春画を見たときにもかわらなかった。彼の春画は、他の春画作家に比べて誇張された性器やアクロバティックな体位が少なく、すっきりとした性表現がなされているように見える。最初のうち私は春信を淡白で技術屋的な絵師とイメージしていたのだ。 
 しかし、彼の春画の中に先の浮世之介こと「まねゑもん」の存在を見出したとき、そのイメージは大きくくつがえされてしまった。春画を見る者の覗き見の欲望をくすぐるような存在。それを具体化してしまう春信の想像力。甘く上品な中に倒錯した性表現がなにげなく介在する。浮世絵師は一筋縄ではいかない。 
 さて、当のまねゑもんであるが、これがなんとも愛らしく、すこぶるゆかいである。たとえば、床の上で男女がくんずほずれず盛り上がっているすぐそばで、おちょこをチャンチキチャンチキ鳴らして囃し立ててみたり。習字の師匠が弟子の子娘に手を出しているところを覗いては、なんて無惨な処女喪失なんだろうと嘆いてみたり。心中を誓った男女が最後のいとなみに精を出すところを見て、さかりの花を散らすがいたわしや、と二人の持ってきた脇差を隠してみたり。あらゆるシチュエーションで男女がフンフンフウフウハアハアスウスウアンアンモウモウソレソレセッセセッセズイズイズガズガヌルヌルチウチウジブジブハレハレヒイヒイ(おっとっと、やりすぎた)あれやこれやでからむそのそばで、チョコマカチョコマカ。屈託のない表情や素直な独り言に思わずふきだしてしまう。と同時に、こちらもまねゑもんの覗き見に参加してしまっている。その共犯意識が一層まねゑもんを身近なものにしてくれるのだ。 
 まねゑもん本人の姿に目を移してみよう。まず髷は軽くすっきりと本多髷。黄枯色あるいは鼠色で縦縞の着物に黒羽織をはおっている。腰には脇差や銀ギセル。うむ、この着こなしはかなりの通人であると見た。好き者を自称し遊びまわるだけのことはある。まねゑもんは春信本人がモデルであるとのことであるから、春信自身も相当の遊び人だったのではなかろうか。 
 江戸期、特に中期以降、医学の発達と共に性に関する知性と実践が格段に進んだといわれる。春画本などはその革新性を随時伝えるメディアであったし、その伸びやかな性表現は進歩のすさまじさを示すものだろう。その進歩を背後から支えた大衆文化のもつ視点というものを、実はこの「まねゑもん」がもっているのではと私は考える。まねゑもんの行動や言動をながめていると、どんなに醜い濡れ場であっても、どんなにまねゑもん自身がそのことを嘆いていようとも、なぜかそこには性そのものについての自虐やうしろめたさというものを感じることがない。どこかあっけらかんとしているのだ。恋愛であろうと強姦であろうと近親相姦であろうと政治的かけひきであろうと、そんなことは関係ない。性の実践あるのみ。すがすがしいほどの解放感を感じる。 
 江戸期の道徳として私たちはすぐさま儒教や道学を思い浮かべるが、実際はその影響は武士階級だけのもので、庶民にはほとんどおよばなかったという。徳川二百五十年の間、争乱らしい争乱がなく、武力の脅威を感じることなく暮らすことができた庶民の間で武士の倫理など重要な意味を持つわけがない。江戸庶民は性に明るさを求め、快楽を享有するだけの遊びや余裕を常に持ち続けていたのだ。そうした遊び心が春信の想像力を通してまねゑもんを生み出したといっても過言ではなかろう。 
 明治以降、庶民が日本国民になり、厳格な皇国道徳を植え付けられると、性に関する解放感は急速に失われていった。大正から現在にいたる性表現はどこまでいってもうしろめたさをともなっている。そう考えると、まねゑもんがチャンチキ笑っているところをうらやましく見ている自分がうらめしく思われてくるのである・・・

日本的なるもの12

 暖簾を片手ではらい、草履を下駄箱に放りこむ。21。木片でできた下駄箱の鍵に刻まれた数字。擦りガラスの入った木戸を開け番台に小銭をあずけて「こんちは」。重ねてある籐カゴを一つ取り、それを裏返して床に二度ほどがんがんとたたく。身につけているものはすべて取払い、カゴの中に重ねてロッカーに放りこむ。鍵についた輪ゴムを腕にくくって、いざ湯殿へ。 
 持ってきた洗面器の中には石鹸、シャンプー、リンス、歯磨きセット。髭剃りはもちろん番台で売っている百円のもの。タオルはできれば腰にまわして端と端のとどくものが良い。銀行、温泉などでもらったものならばなお良い。 
 足で腰掛けを引き寄せ、備え付けのシャワーで軽く洗ってから座る。ひとまず打ち湯。肩からかけて、背中、腰、脚に今から入るゾ、という信号を送る。さて湯槽へ。まず手で温度を確認しておいて、静かにかつ一気に肩まで湯につかる。 
 おおおおおうううう、ふううう。 
 手で顔を拭いながら、ぶるぶるぶる、ふうううう、あうう。ごくらくごくらくとオ。 
 背中を壁にもたれかけさせて、お湯を味わいに入る。少し熱めのお湯がシャキッと肌を刺激するが、まろやかな温かさがからだ全体を包み込む。毛穴という毛穴からお湯がしみ入るかのよう。時間と共に体液とお湯が対流しはじめたか。そうなるとどこまでが自分の身体かどこからがお湯か、もう判別つかない、いや、つけたくなくなる。ぐっと伸びをして、はっと弛緩する。身体が湯槽の中で完全に解放される瞬間。 
 ひるがえって壁に描かれた絵を味わう。やはり富士が良い。ときおり奥入瀬かどこかの渓流や、天の橋立などが描かれていることもあり、それはそれで趣きがあって良い。しかし、富士が描かれているのを見ると、やはりこれに優るものなし、と確認させられる。日本に住む多くの人々がその意識の中に共通して映し出す富士は、おそらく銭湯の壁絵をその原型としているのではないだろうか。 
 お湯からあがり、身体を洗う。東京下町あたりの銭湯では背中の流し合いをする習慣が今でも続いているとのことだが、こちら関西にはない。黙々と身体の隅々まで洗うのみ。湯殿での会話も少なく、ひたすら我身を昇華し解放することに精を出す。 
 頭のてっぺんから足の先まで洗い上げると、再び湯槽へ。今度は湯槽の縁に腰掛け、足だけをお湯につける。深呼吸して周りをながめる。水蒸気がたちこめて意識を朦朧とさせる。壁絵の富士やケロリンの黄色い洗面器の概形があいまいになり、消尽点があやふや。薄明の中に意識は崩れゆく。ぶっとんだわけではない。意識の輪郭がなくなったといおうか、なんといおうか。 
 カポーン。 
 洗面器の音に目覚め、今一度、湯槽に埋没。喉の乾きと共に身体を新たに取り戻す。瑞々しい身体感覚に意識も新たな立上りをみせる。首すじから目の裏側にかけて熱いものがこみ上げる。もう少しがまんがまん。 
 近所のじっちゃんが入ってきたのであいさつする。身体を洗う後ろ姿に遣い慣れた業物の風格が漂う。自分にあれだけの風格を出すことができるだろうか。 
 のぼせてしまう前にお湯からあがる。軽くタオルで身体の水気を取って脱衣場へ出る。ここちよい冷気にほっとする。大きな扇風機の風にあたりながら身体を拭く。しばらくパンツ一枚で呆けて立ちつくす。このときなぜか手は腰にある。 
 ひと心地ついたところで喉の乾きをうるおす。スポーツ飲料やウーロン茶、ビールなども良いが、ここは一つ牛乳でいこう。片手は腰に、一気に飲み干すのが基本。ぎんぎんぎんぎん。立ちくらみをこらえる。 
 身体の隅々までほかほかするのを味わうように椅子に腰掛ける。テレビをながめて時間をつぶした後、籐カゴを元の場所に重ねて「おおきに」。暖簾をくぐって返り道も幸せ幸せ。 
 銭湯は日本の庶民が生み育んだ最高の快楽装置である。人間の欲望を満たしてくれるものが溢れる最近においても、快楽装置としての魅力に一点の曇りもない。暖簾のむこうに日本人が追い求めた快楽の粋がある・・・・・
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by j-sense | 2007-09-16 07:58 | □日本的なるもの