日本の大地で培われて来た日本人の感性を原点とするデザイン創造集団


by j-sense
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<   2007年 09月 ( 15 )   > この月の画像一覧

図版は、下記を参照して下さい。
http://www.casanavi.co.jp/column/column_onko/col_onko22.html

日本では、建築について学んだ人であれば、まず間違いなく知っているであろう外国人建築家と言えば、フランク・ロイド・ライトが最右翼であることは、あまり異論のない事でしょう。今回から、日本の建築史では異彩を放つ、(私個人としても大好きな)この大建築家について話したいと思います。ライトが日本でここまで有名なのは、旧帝国ホテルの存在が大きいと思います。さらに、ライトは生涯に800件(その内の半分が実現した)もの建築設計を、70年に及ぶ実動期間に行なったという化け物のような建築家ですが、実はあまりワールドワイドではなく、実物件はほとんどがアメリカ国内に限定されていて、アメリカ以外では、カナダに数棟(しかもすでに現存しない)と日本に6棟を数えるのみというほどです。日本には6棟の内、4棟が現存し、しかもライトの生涯でも最大級の作品である帝国ホテルを、一部を移築しただけとは言え、見る事が出来ます。ちなみに日本におけるライトの設計は12件を数え、その中の6件が実現しましたが、林愛作邸(一部)1917、自由学園1921、帝国ホテル(一部)1923、山邑太左衛門邸1924が現存しています。帝国ホテル別館1923は取り壊され、箱根の福原有信邸1920は関東大震災で倒壊しました。(西暦は竣工した年、以下も同様)

ライトは住宅建築家として世に出て、終生、その立場を変えなかったと言うか、その外の大規模建築の機会が与えられなかったと言うか、どちらにしても、壮年期の帝国ホテルなどと、晩年のジョンソン・ワックス本社やグッゲンハイム美術館、マリン郡庁舎などのごく一部を除いては、作品のほとんどが住宅なのです。これまでに挙げた作品以外では、傑作と言われるウィンスロー邸、ロビー邸、カウフマン邸など、住宅ばかりです。ライトがアメリカ国内で大規模建築を手がけたのは、晩年に限られているのに、なぜかアメリカ国内での知名度も人気も高いのです。それは、通常切手に肖像が描かれ、サイモン&ガーファンクルが「FLライトに捧げる歌」を作り、映画タワーリングインフェルノで、冒頭の建築家が砂漠からヘリコプターで出発するシーンはライトがモデルだと言われるほどですから相当なものです。何故かと言えば、私見ですが、ライトはきわめてアメリカ的な建築家と言えるからではないでしょうか。アメリカの中部に生まれた純粋のアメリカ人(アメリカ人に純粋と言う表現があるのかどうか知りませんが)であり、波瀾万丈のドラマのような生涯を送り、最終的に成功者になった辺りが、アメリカ人好みなのではないかと思います。

ライトは1867年ウィスコンシン州リッチランド・センターという小さな町に生まれました。18歳で両親が離婚し製図工として働き始めます。20歳でシカゴへ出て、シルスビーという建築家の事務所で修行をしました。翌年アドラー&サリバン事務所に移ります。ルイス・サリバンはライトの師匠とされる人物で、アールヌーボー風の植物的装飾を得意とした人気建築家でした。現在でもシカゴでカーソン・ピリー・スコット百貨店やオーディトリアム・ビルなどの作品を見る事が出来ます。ライトは、師匠サリバンがフリーハンドで描く見事な装飾文様を見て、これはとても敵わないと思ったのか、自分は直線的なデザインをするようになったと言われています。

入所の翌年に結婚したライトはシカゴの郊外、オークパークという住宅地に自邸兼アトリエ1889を自らの設計で建てます。これが建築家ライトの処女作と言って良い作品です。現在でも財団によって管理され、見学することが可能ですが、後のプレーリーハウスと呼ばれるデザインの原形を見る事が出来ます。この頃から才能を発揮し始めたライトは、事務所内で住宅を専門に担当するようになったようで、若いのに独立した部屋を与えられるほど優遇されています。

自邸兼アトリエ
シルスビー事務所に在籍した当時、日本贔屓であった所長のシルスビーの美術品などに触れたと思われるライトは、1893年のシカゴ博覧会で日本が出品した「鳳凰殿」を目の当たりにしたようです。サリバンの事務所でも博覧会場に建設されたいくつかの建物を設計していましたので、建設中から鳳凰殿を見ていたに違いありません。この時期頃から日本美術に対する興味が広がったようです。ライトは自分の作品に見られる日本趣味(日本で人気のある理由の一つですが)を、生涯、認めようとはしませんでしたが、実は浮世絵の収集家としても知られていて、一時期は浮世絵を扱う美術商の様なこともやっていました。1905年に初来日をしますが、浮世絵の収集が主な目的であったと考えられます。その証拠に、1906年と1908年にシカゴ美術館で浮世絵展を開催したり、コレクションを出品したりしています。とにかくライトが日本的なるものに深く精通していた事は確かでしょう。

住宅建築家として自信を付けたライトは1893年に独立(アルバイトがばれてクビになったとも言われます)しますが、この年に出世作となるウィンスロー邸が竣功しました。深い軒と大きな屋根、水平線を強調したデザインはプレーリーハウスの1棟目とも言えるもので、現在でもその美しさは見事です。草原地帯に生まれ育ったライトには自然なデザインだったのかも知れませんが、ヨーロッパ指向の強かったアメリカでは、それまでに無い独創性溢れたデザインで、多くの人に認められた結果、その後ライトに住宅設計の依頼が殺到する事になりました。この時期を「第1期黄金時代」と呼びます。現在でも自邸のあるオークパークとその隣に広がるリバーフォレストにはライトの作品が数十棟も残されています。中にはクイーンアン様式などの新古典主義の住宅も多くあり、明らかにライトの指向と異なるデザインで、恐らく施主の要望を新進建築家としては無視出来なかったのではと思えるものです。ライト設計の住宅は現在でも評価が高く、100年以上前の住宅に普通の生活をしている人たちが、ライトのデザインを尊重しつつ(大きな改変もせずに)住んでいるのです。オークパークなどでは、自邸やウィンスロー邸の他には、プレーリースタイルの作品であるハートレー邸1902やチェニー邸1903などは押さえておきたいものです。


ウィンスロー邸
ハートレー邸
ちなみに、この時期のライトのデザインは、現在の日本の住宅(特に2×4系)のデザインに多大な影響を与えています。あちらこちらにライトの亜流(失礼!)の姿をした住宅が建設されているのは、皆さんご承知の通りです。ところで、住宅ではありませんが、オークパークのユニティ教会1906も傑作として名高く、機会があれば是非見て欲しいものです。複核プランと呼ばれる、機能の異なる空間を巧みに組み合わせることに成功しています。ライトは空間構成の魔術師で、段差や広さ狭さなどを計算した上で、次々と視界が変化するようなドラマチックな空間を生み出しています。ドアをあまり用いずに、空間変化だけで空間を仕切る事もしています。現代にも通じるオリジナリティの高さは、さすがと言わざるを得ません。後にタリアセンを開設して、建築家の教育にも力を注いだライトですが、弟子に指示する時にはあたかも目の前に図面があって、それを読むがごとくに詳細な寸法指定まで指示したと言われています。きっと頭の中には図面が出来上がっていたのでしょう。天才たる所以ではないでしょうか。


ユニティ教会
ユニティ教会(内部)
シカゴ大学の構内にプレーリースタイルの最高傑作と言われるロビー邸1909が建っています。シカゴ大学が管理するこの住宅は、水平線を強調するために長く伸ばした庇が印象的な建物ですが、この庇のためにライトは当時まだ一般的でなかった鉄材を構造材として用いるなど、先進性を見せています。内部構成も直線的な装飾もライトならではのものです。面白いエピソードとしては、完成後、突然現れたライトは自らが設計した椅子などの家具を、施主が自由に位置を変えて使っているのを見て激怒し、自分で元の位置に戻して決して動かしてはならないと言い放って帰ったそうです。本当かどうかは定かではありませんが、そのせいかロビー氏は完成後数年で、この傑作住宅を売却してしまいました。


ロビー邸
ロビー邸(内部)
今回は生まれから第1期黄金時代までを述べました。次回はこの続きを述べたいと思います。
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by j-sense | 2007-09-16 13:08 | □日本的なるもの
表象文化論学会第2回大会研究発表:パネル4

パネル4 受容としての「日本思想」〔芸術篇〕
7月1日(日) 13:00-15:00 東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム2

ある文化現象の生起に主導的役割を果たすのは、自律自閉した思考主体による創意や地政学的コンテクストのみではない。とりわけ芸術と名指される分野では、むしろ「他者」との邂逅や対話関係によって、その歩みが形成されてきた。その過程は、ややもすれば単純な影響関係としてのみ語られる傾向にある。その一方で、「日本的なるもの」という自律的かつ自足的な存在を措定し、そこに何らかの思弁や言説・作品を派生させるような「本質」を見出す思潮も、いまだ根強く残存している。かような趨勢からは批判的距離を保ちつつ、それでもなお「日本(的なるもの)とはなにか?」と問い続けるならば、過去の断片化された痕跡や遺された言葉の探査という、特異的かつ発散的な「出来事」に対する繊細かつ愚直な試みが要請されることとなるだろう。

我々の言う「日本思想」とは、広義かつ仮設的なカテゴリーである。それは何らかの本質の謂いではなく、むしろ「他なるもの」との邂逅、格闘と受容、他方の曲解や誤解、忘却といった一連の流れに付された、いわば通り名のようなものだ。本パネルではかかるアプローチを取ることで、従来の日本思想史研究や受容研究、比較文化研究等とは異なった視点を提示したい。積極的・統一的な収斂点は前提とせず、各発表によって結果的に形成されるかもしれぬ多焦点的な状況布置を、来聴者との議論も交えながら浮かび上がらせることを期待している。

【本パネルは、「受容としての「日本思想」〔思想篇〕」と連携しており、2パネル1組として構想されたものです。】(パネル構成:小澤京子)

【コメンテイター】横山太郎(跡見学園女子大学)
【司会】柿並良佑(東京大学)

様式を通じた世界との接続―伊東忠太による「日本建築史」/天内大樹(東京大学)

本発表では、まず日本建築史学の泰斗と目されてきた伊東忠太における「様式」概念を,彼の代表的な論考である「建築進化論」から抽出する。「建築進化論」で「進化」するとされた「建築様式」は、歴史学者の視線で西洋由来の建築史学的視座から整理されている。この議論の背景には、とくに日本の「建築様式」が西洋の影響を受けて以降いかに変化していくのか、変化すべきかといった建築界の議論があるが、伊東は日本の「建築様式」をギリシア由来の西洋建築史と対応関係を失わない形で説明しようとしていた。そこでは諸様式間の価値判断は脱落しており、歴史学的・地理学的に等し並みに配置された各様式のマッピングがなされ、それが日本の「建築史」を世界的な建築史と接続する理論装置と化していた。こうした「日本建築史学」成立にあたっては、すでに日本美術史学の先駆けの一人とみなされてきた岡倉天心の影響が指摘されてきた。岡倉においても日本における美術史学の成立にあたって、西洋由来の世界美術史が援用されているが、ギリシアに代表される古典古代への態度に関しては、伊東のそれと微妙にずれており、岡倉は東洋美術の隆盛を「東洋的ロマン主義」の高揚をもって説明した。これについては「象徴的」「古典的」「ロマン的」というヘーゲル的な歴史把握の影響も指摘されてきたが、ではそうした影響がなぜ伊東に伝播しなかったのか、本発表はこの問いへの説明を試みる。


近代日本の「美術」と「文化」をめぐる諸制度―矢代幸雄による美術史記述と文化国家論/小澤京子(東京大学)

本発表では、日本における西洋美術史研究の祖であり、日本美術の紹介や文化財制度の整備にも尽力した人物、矢代幸雄(1890-1975)を扱う。欧州での研究成果を纏めたボッティチェッリ論(1925)は、日本人による初めての本格的な西洋美術史研究であった。帰国後の彼は、日本美術の地位向上に尽力するようになる。それは個人の趣味判断としての「日本回帰」ではなく、西洋的教養を身につけたエリートの、自らに課された社会的役割期待に対する応答であった。英米の大学でも教鞭を取り、数々の美術館で役職を務め上げた経歴は、国際的視野をもった日本の文化人という立場を彼に要請した。かかる状況の中で矢代が唱えたのが、文化によって国力や国際的地位の向上を図ろうとする「文化国家論」である。彼の論調は、戦前から戦後まで一貫して中立的な外観を保っているが、自国文化をナショナル・アイデンティティーの根拠に据えようとする巧妙な政治性を潜ませてもいる。

ここでは1)美術史研究の西洋からの継受と自律的・内在的な確立、2)西洋文化に比肩しつつ独特の価値を有するものとしての日本美術観、3)戦後日本の「文化人」に課された役割期待と「文化国家論」、という三点が分析の対象となる。それは日本近代に特有の問題系を炙り出すとともに、今なお「西洋美術史」や「文化財」を囲繞する、様々なレベルの「制度」に対する問題提起ともなるであろう。


天・地・人をつなぐもの―世阿弥「一調・二機・三声」をめぐって/玉村恭(東京大学)

世阿弥の有名な言葉に、「一調・二機・三声」というものがある。彼の能楽論には中国思想や仏教哲学など先行思想の流用が多く見られるが、「一調・二機・三声」の中核に位置する「機」の概念もまた、仏教的な「機」および中国思想で伝えられてきた「気」の哲学の換骨奪胎によって着想されたものである。だが問題は、彼がそれを単なる流用にとどまらせず、いかにして独自の地点に到り着いたかを見極めることである。

「一調・二機・三声」は、演能の開始、とりわけ最初の一声を発することの要諦について論じたものである。「機」とは「気」であり、息に主体的意志が加わったもの、とこれまで解されてきたが、世阿弥の「機」には、演者の主体性に還元されない広がりが蔵されている。それは人が人である限り持ち得る心のある様態であり、従って心を有するあらゆるもの、すなわち天下万物が相互に「感応」するための手がかりとなるものである。万物は「機」によって通じ合っているばかりではなく、「機」の様態によって常に互いの位置を確かめ測り合っている。世界は、そのように「機」によって編み上げられたものとして理解することが可能である。能を演ずるとは、演者が「調子」を「機」に合わせ、「当気和合」を実現することによって、「機」ないし「気」の小宇宙としての世界の形成に参与することに他ならない。
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by j-sense | 2007-09-16 13:00 | □日本的なるもの
 小倉遊亀、104歳。きんさんぎんさんにはかなわない(しかも向こうは2人だ)が、遊亀ちゃんは文化勲章も受章した現役の画家。別に差別するつもりはないけど、ただ無邪気に生きてるだけというのとはワケが違う。
 それにしても、先日90歳で亡くなった東山魁夷も含めて、日本画家は総じて長命だ。なかでも遊亀ちゃんの属している日本美術院(以下「院」)は、別名を「養老院」と呼ぶほど。呼ばないか。岡倉天心とともに初期の頃から院のリーダー的存在だった横山大観は満90歳で没。その年、院は財団法人となり、初代理事長に就任した安田靫彦は94歳まで生きた。第2代理事長に89歳で就任した奥村土牛は、理事長の座を95歳の小倉遊亀に譲った後、101歳で没。その遊亀ちゃんが104歳で現役なのだから、これはもう妖怪集団である。でも全員が長寿なわけではなく、むしろ長生きした者が理事長になる年功序列制といったほうが正解だろう。だから、遊亀ちゃんのあとを継いで60代で理事長に就任した平山郁夫は異例の若さ、小僧といっていいくらいだ。

 小倉遊亀展である。これは「パリ展帰国記念」と銘打たれているように、今年2月にパリの三越エトワールで開かれ「大好評を博し」た個展の「凱旋記念展として」行われたもの。でもカタログ末尾の「パリ展報告」を見ると、52日間の会期中の総入場者は5503人。1日平均100人ちょっとではないか。もちろん動員数だけで判断するべきではないが、それにしてもこれで「大好評を博しました」と胸を張るとは。
 ともかく、問題は作品だ。出品作品は計100余点、そのうち戦前のものは16点のみ。その多くは(特に顔の描き方が)童画を思わせ、ほのぼのしちゃいます。しかしこれらには、タイル張りの風呂に浸かる2人の裸婦を描いた戦前の代表作というべき「浴女」(今回は不出品)のようなモダニティが感じられず、単にほほえましいだけともいえる。ただ植物の描写はうまい。遊亀ちゃんが絵の道に進む大正時代(!)に安田靫彦をたずね、「一枚の葉っぱが手に入ったら、宇宙全体が手に入ります」との言葉をもらったというが、それを字義どおりに受け止めてしまったのか、葉っぱの描き方だけは達者なのである。

 日本画というのはとりあえず、日本の伝統的なモチーフを、伝統的な素材や技法で描くものといえるだろう。ところが遊亀ちゃんの場合、伝統的なモチーフを描いたものはみな凡庸である。同展の目玉のひとつとなっている敗戦直後の「麿針峠」は、絵としてちっともおもしろくないし、60年代後半の「菩薩」や「舞妓」、あるいは現在も描き続けている静物画などは、ほかの日本画家に任せればよい。前述の「浴女」のように、遊亀ちゃんが本領を発揮するのはモダンな日常風景を描いた時である。戦後でいえば、60年前後の作品。たとえば、どこかホックニーのポップ感覚に通じる「家族達」、紫、白、赤の色彩が鮮烈な「越ちゃんの休日」(越ちゃんとは越路吹雪のこと)、画面右隅の鮮やかなガラス格子に目が吸い寄せられる「兄妹」などだ。
 このような、戦後急速に普及する洋服や洋間といったモダンな生活様式を描いたものに佳作が多いのは、皮肉というほかない。はっきりいってこれらは、日本画のモチーフとしてはキワモノであるからだ。そして遊亀ちゃんの真価は、まさに「日本的なるもの」と「モダンなるもの」を融合させたキワモノ性にあるといっていい。だが、日本人にとってはキワモノでも、外国人の目からすれば驚くほど斬新なデザインに映ることもある。
 カタログの中で森英恵が、「もしも小倉遊亀先生がモードのデザイナーになっていらしたら、すごく成功されたに違いありません」と述べているのは卓見というべきだろう。なぜならその後、「日本的なるもの」と「モダンなるもの」をファッションに採り入れた三宅一生や川久保玲が、パリのモード界でそれこそ大好評を博しているからである。遊亀ちゃんのパリでの個展も、観客こそ大して入らなかったものの、そのキワモノ性を見抜いた人たちには「大好評を博し」たのかもしれない。
 
パリ展帰国記念 小倉遊亀展 巡回予定
日本橋三越本店 1999年5月11日〜30日   
大丸大阪心斎橋店 1999年8月12日〜24日   
三越札幌店 1999年9月21日〜10月4日 
福岡三越 1999年10月19〜11月7日  
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by j-sense | 2007-09-16 12:56 | □日本的なるもの
中谷礼仁(歴史工学家・早稲田大学准教授)

「日本的なるもの」へのわれわれの音楽的取り組みとは?
とか、小難しい題を付けたが、これはひとつのライブイベントを聴いたときの単なる印象である。「日本的なるもの」への取り組み方をとっても、3つのユニット(ソロを含む)がこれほどまでに違った結果をもたらすというのは、実に興味深かった。また、「日本的なるもの」がそれぞれの出演者たちによってどのように解釈されたのか、というアプローチに相違によって、他でもない自分がどこに立つべきであるのか、を図らずも考えるきっかけとなったのである。

自分は、日本人でありながら、西洋音楽の楽器を手にして、西洋発の「音階解釈」によって限定されている音楽表現に取り組んでいる。

自作楽器を用いて日本の古典を奏でるというアプローチ。非日本発の楽器や表現手法を使いながら、日本の古典楽器と伝統唱法とコラボレーションするアプローチ。そして、日本発の楽器をバンドに組み込んでジャムるというアプローチ。

果たして、自分に「日本的なものをせよ」と迫られたときに自分が出来ることとは何であろう。自分の立ち位置を変えてまで、日本的なものを奏しようと思うのであろうか? 日本的なものを取り上げるとき、われわれは日本の古典に戻らなければならないのであろうか。日本的なものとは古典の中にこそ見出されるものなのであろうか。などなど、つらつら考えてしまったのである。これは早い話が、人がどうだったという以前に、すべて自分が考察するべき問題なのである。もちろん、「日本的○○」というものに全くこだわらないというアプローチがあっても良い訳だが。

さて、昨日金曜日の夜は、尾上祐一氏の「ライヴシリーズ日本の味 初夏の巻」を聴きに国立・地球屋へ。実に有意義な時間を過ごした。

以下データはウェブからの転載:
尾上祐一(回擦胡、RibbonControler)feat.亜弥(舞踏)
(「コントローラ」は、スペルがControllerのはずなんだけど。)

尾引浩志(=倍音S、ホーメイ、イギル、口琴)
今井尋也(能うたい、小鼓)

ヒゴヒロシ(ベース)
つの犬(和太鼓セット)
森順治(バスクラ、笛、尺八)

尾上(おのうえ)氏とは無力無善寺のライヴイベントで以前ご一緒したことがある(噂では某社「カ○ス○ッド」の開発者でもあるとか)。そのとき、印象深い「回擦胡」という自作楽器を演奏していた。「二胡」(二弦琴)の一種なのであるが、通常に非ざるところは、あたかもフィッシングロッドについているリールを回すように、ひたすらくるくると楽器に付いたノブを回すことでパーツが微妙に弦をコスり、音を出す。弓(ボウ)なら一定の所まで弓を引いたらどうしても「返し」が来るが、この楽器は基本的に一方向にくるくる回すばかりだから、延々と長いロングトーンを奏することが出来るのだ、弦楽器のくせに。しかも吹奏楽器にはどうしても関わってしまう肺活量やブレスとも無関係に伸ばせるのであるから、原理的にはハーディガーディのようでもあり、感覚的にはバグパイプのような持続音が造れる楽器な訳である。実に妙な楽器だが、その音色はまるでシルクロードを西の端から東の端までを一気に横断する(Aquikhonne曰く、音の「アカシャ年代記」の)ような懐かしいエスノ感覚がある。「日本の味」と言うよりは、「二本の味」。つまり2本の弦でドローンとメロディを作り出す「シルクロード沿いの味」というのに近い。しかし、アジアの味をエスニックと感じてしまう自分って一体...。

今回は、回擦胡以外に、尾上さんのもうひとつの自作楽器、「リボンコントローラー」の演奏を聴くことが出来た。これは、まるで大正琴のように膝の上にボードを横に置いて両手で演奏するのであるが、まったくもって見事な手さばきである。単音しかでない初代モーグシンセのようなアナログ的な音であるが、原理的には発振している音源部はアナログで、加工(エフェクト)している部分はデジタルであるそうな。だが、その音たるや、尾上さんの趣味でそのような音を選択しているのであろうが、実に古色蒼然としているのであるが、それが実に心地よいのである。オンドマルトノを思わせるピュアな波形を選んでいるのだろう。なかなか強烈なシンプルさである。温度でアナログ発振部の回路に影響が出て音程が変わってしまう(らしい)あたりも、実にアナログ的な楽器の難しさを残した名器(名機?)なのである。それで、尾上さんは日本の唱歌や黒澤映画『羅生門』のテーマなどを奏でたのであった。渋い。

第2部の尾引氏は、初めて聴いた。そのホーメイや口琴の表現力。あれは一体なんなのだ。どこで修行をしたのだろう。彼の口琴は文字通り「人間テクノ」ではないか。「日本の味」と銘打たれたライヴにも関わらず、ソロでは、徹底して自分の「立ち位置」「守備範囲」でその芸を見せる。その潔さが良かった。言っては何だが、全然「日本の味」とは関係がない。だが、彼がゲストとして共演した今井尋也氏(能うたい、小鼓)とのコラボレーションで、初めて「日本の味」の合作をした訳である。ゲストとは言っても、後半の二人による共演は筆舌に尽くし難い「互いの良さを引き出す」シナジー効果を見せ、ゲストを呼んでまでやる意味というのを見せつけてくれたのである。すでに倍音sのCD録音でも聴けるらしい今井氏との共作を今回はライヴ状況において2人で再現してくれたらしいが、鼓を叩きながらの掛け声や能謡の発声と尾引氏の倍音唱法が全く自然なものとして解け合う。今井氏のオリジナルテクストを謡いの様に2人で朗吟するところなど、岡本喜八の『ああ、爆弾』の冒頭を思い起こさせる。なにしろ、こういう日本の古典芸能の発声法で二人の声が「合わさる」ことで醸し出される力というのは実に強烈だ。あとで、今井氏に話を聞くと、「謡い」に関しては今井氏本人がリハを通じて尾引氏に「稽古を付ける」結果になったと言う。実にうらやましい共演(共犯)関係である。

第3部のセットに関しては、いろいろ言えることがある。一言で言うと、それは「何か」だった。悪く言えば、それぞれの演奏者の立ち位置というものが「見えない」ところが残念。言うまでもなく、良いところは何ヶ所もあった。だが、それぞれのメンバーが押しも押されぬ一級の奏者でありながら、演奏を聴いている間中「普段の守備範囲外のことをやっている」という居心地の悪さに終止付きまとわれた。森さんを始めとして、普段やっている「自由形」の即興演奏を通じて、いくらでもそこから底はかとなく滲み出てくる「日本的な情緒」というものを垣間見ることが出来ると思うのだが、日本の民謡その他(日本を思わせる旋律)をそのまま笛で吹く、そのアプローチはいかにも残念だった。今まで素晴らしい演奏を何度も聴いているので、それは意外な驚きなのであった。

つの犬さんのいつもの破綻寸前まで感情的に盛り上げるそのスタイルとエンターテイメント性には、今までと同様の共感を覚えつつも、彼から働きかけられる共演者への「音と眼差し」を通してなされた折角のコミュニケーションも、ある種の疎通不全(私にもよく起こるらしいものだが)、そしてヒゴさんのベースが良くも悪くも絶対に揺るぐことのない音楽的基盤を決定していて、活かされないのであった。

ただ、どんな結果であるにせよ、それが3人が考えた上、どうしても実現したかったプロジェクトであるということには一定の理解は出来る。オリジナル曲を提供したヒゴさんにとってもそれはやりたかったことのひとつであったには違いない。彼の個人的な音楽の嗜好の一部を垣間見ることができたし。だが、あれがほんとうに「それ」であるのか。それはどう見積もっても、もっと良くなる余地のあるプロジェクトであり、その「胎動期」に自分は立ち会ったのだ、と考えることにする。(いや、「曲」をグループ演奏していない自分が偉そうなことを言えた立場じゃないんだけど、まったく。)

註:赤字部分は、尾上氏自身のチェックにより入った「赤」である。まことに尾上氏に感謝なのである。(05/31/2005記)

尾上祐一 wrote:
いやぁ、ほんと詳細なご感想、大変感謝しております。冒頭で書かれている通り、今回ヒゴさんのほうから「日本的なものを」との御題で
ライブに挑んだんですが、日ごろ殆どは「自分の好き勝手に音楽をやる」だったのに対し、今回のような題目があると困難が増えましたが、学ぶことも多いですね。なんか今回の企画で奏法の幅も広がった感じがします。尤も、まぁ自分は好き勝手派なんで、好きな御題目でないと一所懸命やらないとは思うのではありますすが。日本の古い音楽は、子供のころ、祖母が民謡や演歌をローファイラジカセで大音響でよく流していたんで、その辺の原体験があったのも今回に活かされたんじゃないかなと思ってます。アカシャ年代記も読んでみたいと思ってます。

共演された方、それぞれが良いものを持ってたと思いますが、尾引さんのパフォーマンスは僕も同感ですね。もってき方が実にうまかった。

あと、リボンコントローラ、スペルはRibbon Controllerですね。ご指摘ありがとうございます。逆に当方から、ちょっと修正系のコメント
です。

#「カ○ス○ッド」の発明者
⇒開発者にしておいてください(笑)。

#楽器本体はアナログで、発振している音源はデジタルらしい
⇒発振している音源部はアナログで、加工(エフェクト)している部分は
デジタルである。

#温度で金属製リボンの電気抵抗に影響が出て音程が変わってしまう
⇒温度で、アナログ発振部の回路に影響が出て音程が変わってしまう。

どうぞ宜しくお願いします!
2005-05-31 12:40:06
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by j-sense | 2007-09-16 12:43 | □日本的なるもの
書籍名わび・さび・幽玄 「日本的なるもの」への道程
著者名鈴木貞美/編 岩井茂樹/編
出版社名水声社
本書は、和歌、能、茶、日本庭園、俳諧など、ジャンルの異なる領域について、それぞれの評価の歴史をたどり、「わび」「さび」や「幽玄」が、日本の美学の核心として語られるようになってきた様子を明らかにしようとするものである。
目次/
序説 「わび」「さび」「幽玄」—この「日本的なるもの」
第1章 「芸術」概念の形成、象徴美学の誕生—「わび」「さび」「幽玄」前史
第2章 芭蕉俳諧は究極の象徴主義?—野口米次郎が開けたパンドラの箱
第3章 芭蕉再評価と歌壇—「生命の表現」という理念
第4章 「幽玄」と象徴—『新古今和歌集』の評価をめぐって
第5章 能はいつから「幽玄」になったのか?
第6章 茶道の精神とは何か?—茶と「わび」「さび」の関係史
第7章 伝統・抽象・モダン—堀口捨己と「美」のイデー
第8章 庭園をめぐる「わび」「さび」「幽玄」—一九三〇年代における「幽玄」を中心に
第9章 日本庭園の「わび」「さび」「幽玄」はどう外国に紹介されたか
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by j-sense | 2007-09-16 12:42 | □日本的なるもの
松岡正剛の第八百九十八夜【0898】03年11月27日

重要な加筆があるものの、本書はすでにぼくが読んできた論文や著書の一部で構成されている。だから著者からの贈本をうけたときも目次を見たままでしばらく頁を繰らなかったのだが、何かが気になってふと読みはじめ、やっぱりこれは「とても大事な問題構制」だという実感を深めた。
 テーマは表題どおりの「建築における日本的なもの」である。それ以外のことは書いてはいない。
 が、そこには、近現代の日本人が外部の目によっても、内部の目によっても、つねに自問自答・他問自答・自問他答せざるをえなかった「日本的なもの」が、建築思想を踏み破ってあからさまに殴打され、横転している。その「日本的なもの」の痕跡を、著者はあたかも不確定なものを精緻な設計図に移し挑むかのように、徹底して記述する。肯定も否定もしていない。しかし「日本的なもの」の“或る本質”が急速に浮上する。
 なかなか、こういう本はない。日本社会論や日本文化論はそれこそ数えきれないほどあるけれど、桂離宮を語ってイサム・ノグチや岡本太郎から「視線の回避」におよび、日本人の国民的建築様式感覚を覗いて丹下健三から廃墟的迷宮のほうへ思いをいたし、伊勢神宮と西行を論じて「影向」にひそむ隠れる祖型を掬うというような芸当を、一人で同時にやってのけた著書は、かつてなかった。
 磯崎新の著書については、採り上げたい本はいくらもある。最初の『空間へ』は早々とスペースデザインにおける創発的形質の何たるかを暗示していたし、「美術手帖」連載時から無類の輻湊的な仕掛けを感じさせた『建築の解体』は、まさに建築=思想の連動起爆装置として、その後の日本の建築家を(思想家も)脅かしつづけた。ぼくはこの連載でクリストファー・アレグザンダーのセミラティスにぞっこんになったものだった。
 20世紀が「主題の世紀」であったとするなら、21世紀は「方法の時代」であってほしいと思うぼくには、『見立ての手法』(本書の「カツラ」論を含む)や『手法が』は、まことに強力な援軍の登場に見えた。そこには重源とパラッディオと二条良基とイタロ・カルヴィーノが奇蹟のように一緒のベンチから立ち上がっていた。そこにはまた、「闇」と「虚」の対比が日本においては何を意味するのかという秘密が提示されていたし、著者の引用と暗喩をめぐる手のこんだ思索のプロセスには、建築がつねに“歴史的編集”をうけつづけてきたものであることが、明確に宣告されていた。これらの本が書店に並んだときは、なんだか両手を握りしめてガッツポーズをしたくなるような嬉しさがあった。
 一方、建築行為以前の太初に蟠っているはずの造物主デミウルゴスをデザインの現場に召喚した『造物主義論』は、学生のころからプラトンの『ティマイオス』に激しい嫉妬を感じてきたこの建築家が、ついにその内奥の正体を名指ししようとした傑作だった。
 まだまだ、ある。淡路島に首都を移転したらどうか、族議員を役人にしてしまえ、東京国際フォーラムこそゴミの建築だ、といった言葉が飛び交う『磯崎新の仕事術』『磯崎新の発想法』などは、80年代以前の日本なんて新幹線とオリンピックとリクルート疑惑をやったくらいにしか思っていない若い世代には、すこぶるふさわしい磯崎入門書であろう。加えてぼくは『建築家のおくりもの』の追悼文集「あなたはいまどこにいるのか」の声の響きなども、大好きなのだ。
 おそらく磯崎新を読むということは、磯崎新を見るということ以上にすぐれて言語建築的なのである。
 だからこれを追いかけるのは(ぼくは時代ごとに少しずつ読んできたからまだしも)、ふつうはめっぽう大変なことだろう。ボルヘスの作品のように目を使わないで、言葉の目で世界を再構築した文章世界を読むという体験なら、なんとか想像力だけで読めばいいのだが、実在の建築物の文章に被せられた磯崎言語による再構築の思惟経路をひとつずつ読んでいく作業は、想像力だけではまにあわない。
 なぜなら建築とは、その一個一個が現実の社会に突き刺さっていくものであるからだ。
 しかし、今宵は本書に尽きるのだ。本書はぼくが考える「日本的なもの」とは何かということに、その中心軸でまさに交差している、かけがえのない再構築書なのである。
 その感想を書く前に、いささか個人的なことを記しておくが、磯崎さんとは『遊』の初期に出会って以来、何度も話をし、何度か仕事をともにしてきた。いまも織部賞の仕事などで定期的に会う。
 最初は杉浦康平さんに紹介された。何の集まりだったか忘れたが、奈良原一高、栄久庵憲司、海上雅臣さんがいた。磯崎・杉浦コンビが『都市住宅』と『SD』を仕切っていたころ、三島由紀夫が自決し、大阪万博が終わって1年がすぎたころである。そのときぼくはルドゥのことを話した。磯崎さんはルドゥなら自宅に蔵書しているから見にくるといい、でっかい本だよと笑った。矢も盾もたまらなくて、さっそく訪れた。当時のぼくは歴史的な書物に出会うことが仕事だと思っていたせいもある(だから稀覯本を揃えている天理図書館などには何度も行った)。
 行ってみると、夫人の宮脇愛子さんがすばらしい食事を用意していて、一緒に食べようという。酒を飲まないぼくには、夫妻が用意する晩餐を極上のワインを無視して頂戴するのが心苦しかったのだが、玄米ごはんと料理がおいしくて、つい食べすぎた。それからルドゥの建築図集を拝見し、夜明けまで話しこんだ。磯崎さんは口調が大工職人のようで、まったく屈託がない。
 その直後、ぼくは『遊』4号(1972)に「磯崎新の建築術」を特集することを思いつき、そのころの代表作のひとつだった福岡相互銀行をナナメに切り取る切断作図を40枚近く載せながら、16ページにわたるインタビューを構成した。丹下アトリエ時代にダーシー・トムソンの『成長と形態』から受けた影響のこと、空間というものはとびとびの微粒子の軌跡のように見たほうがいいということ、廃墟や違犯や軋轢に興味を寄せていること、情報としての空間を考え始めていることなど、その後の磯崎世界のいくつもの原点が示唆されていた。
 それからあとのことは簡単にすますけれど、磯崎さんが山口昌男や鈴木忠志と一緒に仕事をしている場面と、ぼくが活動をしている場面がしだいに重なってきた。そのひとつが1978年にパリのルーブル装飾美術館で開かれた「間MA展」である。プロデューサーが磯崎さんと武満徹さんで、大当たりの展覧会になった。ぼくも篠山紀信・山田脩二・小杉武久・芦川羊子・白石加代子・田中泯・鈴木明男らの知り合いのアーティストとともに参加した。これは初めて「間」について、また神道空間の本質について考える機会となった。杉浦さんが図録とポスターをデザインし、ぼくは編集構成に丹精こめた。
 本書はその「間MA展」にインスタレーションされパフォーマンスされた「日本的なもの」とは何かという問いを、その後の磯崎さんがどのように消化し、昇華していったかという軸をもっている。そう、ぼくには読める。
 もうひとつ本書についての個人的な経緯を加えると、ぼくは80年代になって磯崎さんや三宅一生さんらに呼びかけて「ジャパネスク委員会」をつくろうとしたことがあるのだが(何の活動もしなかった)、本書はそのころの性急な意図に対しての回答にもなっている。
 さて本書だが、4章構成になっていて、第1章では20世紀日本の建築がどのように「日本的なもの」を受容し、様式化していこうとしたかが、大正昭和の建築様式の“実験”を通して証される。これが大きな展望軸となって、第2章ではカツラが、第3章で一時代だけに出現して消えた重源の大仏様(天竺様)が、第4章では著者がずっと考え続けてきた「始原のもどき」としてのイセが検証されるという構成結構になっている。
 そもそもの問題は、明治初期にフェノロサによって救世観音や狩野派の凄さが先取りされたように、昭和初期にタウトによって桂離宮が機能美の極致だと絶賛され、伊勢神宮がパルテノンの神殿に比肩されて、世界の建築家たちの最終巡礼地にさえ指定されてしまったことに始まった。すでに堀口捨己の茶室の研究や岸田日出刀の日本美抽出の作業があったものの、このタウト・ショックは日本建築および日本美の見方について、あっというまに「ほんもの=オーセンティック=天皇的==桂・伊勢」「いかもの=キッチュ=将軍的=日光」という図式を氾濫させた。
 折しも日本は1930年代になってアジア侵略を始め、八紘一宇にもとづく大東亜共栄圏の構想に突入していった。これはまさに空間と時間の占拠そのものの計画であったから、そこに多くの建造物が巻きこまれた。かくて、多くの「帝冠様式」とよばれるモニュメンタルな建造物が計画され、実行に移されたのだが、そこで著者は、丹下健三が続けさまにコンペで当選した「大東亜記念営造物」(1942)、「日泰文化会館」(1943)、「広島原爆記念公園」(1950)に注目する(いずれも岸田日出刀が審査員)。
 そして、これを批評した浜口隆一がそこから「日本国民建築様式」という新たな概念を引き出したこと、堀口捨己が「建築における日本的なもの」(1934)で西行の和歌をあげつつも、「岡田邸」などでは一本の線の両側に西洋近代と伝統日本を象徴的に並列させる分裂統合的なデザインをしたこと、当時の知識人を糾合させた「近代の超克」議論がこの時期の「日本的なもの」を模索していたこと、やはりそのころから丸山真男が日本政治思想研究にとりくんで西洋政治との決定的な相違の炙り出しを試みていたことなどをあげ、いったい「日本的なもの」は外部の視線がなくては、その内部の組織化がすすまないのか、すなわち「他者」が必要なのかということを問うた。
 堀口捨己が「日本的なもの」の表現の代表例としてあげた西行の和歌は、有名な「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」である。伊勢神宮を訪れたときのものだ。
 ここには「何事のおはしますかは知らねども」というように、「それが何であるかを指定はできないが‥‥」という留保のような、あえてそこを問うまいとするような、つまりは不確定で未確認な「‥‥」に対する畏敬がうたわれている。
 いったいこの未確認の「‥‥」が「日本」や「日本的なもの」なのだろうか。なんだかこれではとりとめもないが、ひょっとするとあえて取り纏めをしないことが「日本」だったかもしれない。もしそうだとすれば、ここには別の「外部」や「他者」が介在しているとは言えまいか。ここでの「外部」や「他者」は西洋的な実体的な介在者も隣接者や闖入者ではなくて、日本自身がそもそも抱えていた内部的他者のようなものであって、それは「異人」とか「奇遇」とか、あるいは折口信夫がいうような「マレビト」のようなものかもしれないとは言えまいか。
 それならわれわれは、フェノロサやタウトの外部の目に依拠して考えた「日本的なもの」以外の目で、「日本的なもの」を考えなおすべきだということになる。そしてこのことこそ、磯崎新が長らく考えてきたことだったのだ。
 著者は若いころから建築家として次の疑問をもってきた。それは、日本にはそもそも西洋的な「広場」が定義しにくいこと、それをあえて定義するには「界隈」とか「あたり」を持ち出すしかないこと、神も人格神や形象神ではなくて気配のようなものであること、その神が到来するというヒモロギ(神籬)やニワ(斎庭)ですらシメナワ(標縄)で仮に区切ったような結びの場でしかないということ、結局、そうした日本の観念や精神の因ってきたるところを言及しようとすると「ヒ」(霊魂性)とか「チ」(生命性)としか言いようがなく、その表示を具象的な形にしようとすると、「妻入り」や「平入り」や「てりむくり」のような形の組み合わせでしかあらわせないこと、などである。
 こうしてイセやカツラが本格的に検討された。本書はその思索のあとを克明に再現してくれている。話をイセに絞って、著者の辿り着いたところをかいつまんで紹介しておきたい。
 日本の建築界が伊勢神宮に関心を寄せ始めるのは1930年代に入ってからだった。「伊勢神宮こそ全世界で最も偉大な独創的建築である」というタウト・ショックが動いている。天沼俊一・伊東忠太・堀口捨己・太田博太郎・丹下健三・川添登らがイセを論じた。
 著者はしかし、イセにあるものは式年造替に象徴される「始原のもどき」ではないかという興味深い仮説をたてた。論旨を飛ばして紹介する。こう、書いた。
 イセにおいては、実はなかったはずの起源が《隠されている》 からこそ誘惑が発生するのだ。建造物、祭祀、歴史的成立の事実そのすべてが《隠されている》ことこそがイセという問題構制の基本となるというべきなのである。
 いいかえると、地上に建てられているイセの神宮建築そのものは、その始原より以前を《隠す》ために建てられている、と言うべきなのだ。起源を《隠す》ことが図られた。そこに祭られているカミもまた、《隠される》ことを必要とした。そこで《隠す》ための手段が解発されたとみるべきで、それがイセの神宮建築のデザインを決定づけているといえるだろう。
 正殿のデザインがクラとして用いられていた高床の校倉造りであるのは、倉庫こそが隠されることの隠喩であるから、建築型としてまったく適切な祖型たりえている。カミの依代としてのイワクラ、そしてカミを招来する依代を収めるタカクラ、ここでのクラは言葉の字義は倉庫であるが、同時に暗闇でもあり、座でもある。
 なるほど、と唸るような推察だ。著者は、ここには一種のナラティヴを伴う「始原のもどき」があると見た。
 たしかに、そうだ。イセには「始原のもどき」や「始原というモドキのための装置」がある。擬態といえばたしかに擬態だろうが、それは始原を隠すためのモドキ(擬)としての擬態であって、そうすることが「始原が起源を虚像のように浮かばせてしまう装置」だったのである。西行が「何事のおはしますかは知らねども」と言ったのも、そこに感じたものも、これだった。「‥‥」である。
 ではイセでは、なぜ《隠されている》ことが、そこに《あらわれている》ことになるのだろうか。「日本的なもの」とはこのことなのだろうか。イセ的なるものはほかにはないのだろうか。
 おそらくイセ的なものや「始原のもどき」は、日本文化に始終あらわれては消えていったものだったといえるにちがいない。西行だけではない。西行—世阿弥—利休—芭蕉の線上には、この「知らねども」や「‥‥」が必ずあったし、藤原隆信の似絵にも道元の禅にも、人形浄瑠璃にも写楽の浮世絵にも、これが出入りした。“これ”とは何かといえば、「始原のもどき」への姿勢にあらわれる日本人の感受性のことである。その姿勢には、世阿弥や道元や芭蕉がのべた「触れるなかれ、なお近寄れ」という閑居の気味があった。
 だから「触れるなかれ、なお近寄れ」は日本人の主義主張なのではない。イデオロギーではない。近代日本では見失ったがゆえに、フェノロサやタウトなどの外圧を借りなければ見えなくなった思想というものでもない。何かを説得しようとはしていないものなのだ。いわば芭蕉のごとく「松のことは松に習え」と言っているだけなのだ。まことに不思議な「触れるなかれ、なお近寄れ」であって、「始原のもどき」なのである。ぼくならばただちに「負の装置」とよびたいものなのだ。
 しかしもう少し突っこんで「始原のもどき」や「負の装置」に出入りするものの正体を求めるなら、そのひとつはおそらくは、ぼくが第483夜の山本健吉の『いのちとかたち』や第564夜の丸山真男の『忠誠と反逆』で注目しておいた「イツ」(稜威)ということなのだろうと思われる。
 山本はイツを「よみがえる能力を身にとりこむこと」とか「生きのびる力の根源になる威霊を引きこむこと」と解釈した。それを設定することが、その後の継承を可能にしていくような力のことである。丸山は本居宣長を引きながら、イツを「つぎつぎに・なりゆく・いきおひ」と解釈し、それこそが日本の歴史古層にあるパッソ・オスティナート(持続低音)だとみなした。そして、そのイツが動くとき、あるいはそれに触れようとするとき、近代日本はそれを復古主義や国粋主義として過誤してしまったのだと考えた。
 出入りしたのはイツだけではない。そのほかにウツ(空=充)も出入りしたし、ミツ(満=密)も出入りした。
 いずれにしても、このようなイツ的なるものは、近代の西洋知だけでは光があてにくい。論理や言説のかたちをしりにくい。なぜなら、それは戦争や知識の外圧によって凹んだ影の部分なのではなく、そもそもそのような負所をもとうとして抱えたマイナスのCPUであるからだ。そして、その負の本来に触れようとすると、とたんに国粋主義になってしまったり、ナショナリスティックな追憶に見えたりするものなのである。
 しかし、ときに重源や桂離宮においては、光悦の器や友禅斎の雛型においては、世阿弥の複式夢幻能や近松の浄瑠璃においては、そのイツやウツやミツが「始原のもどき」のモドキとして、《隠れているもの》が《あらわれているもの》になった。こうして「日本的なもの」は建築と器物と芸能を行き来する。
 著者は「あとがき」で、「日本的なもの」という問題構制が成立したのは、日本群島が国境線が海に消える島国のせいだったからだろうと書いている。
 たしかに日本は、都合と場合によって、海の出入り口である港を閉じもでき、開きもできた。その閉じているあいだに、和様化が進み、茶の湯が生まれ、浮世絵がメディアとなって、国学が勃興した。これは島国のメリットとデメリットを最大限にいかした方法とその成果であったのだろう。けれども今後は、もはや閉港はありえない。空港封鎖もおこるまい。まして情報ネットワークの封鎖は不可能である。このようなとき、むしろ日本は、世界の群島化を促進する一部というふうにさえなっていると著者は言う。
 開港で思い出したのだが、『見立ての手法』のなかに「開港した日本の建築」という文章があった。丸山真男が日本にはイエズス会士渡来による開港、明治維新の開港、1945年の敗戦による開港という三度にわたる開港があると言ったことを引きながら、三度目以降はそのまま開港しっぱなしになっている日本のなかで、現代建築がなぜ「日本的なもの」を色濃く残響しているように海外の目からは見えるのかということを問うている文章だった。
 1985年に、ボトンド・ボグナーの日本現代建築調書について述べたときの文章である。その最後で、建築家は日本的なものの解読をつねに先延ばしにしすぎてきたのではないかという指摘をしていた。いま思い返すと、磯崎新はこのときの課題を結局は、その後も自分で全部引き受けたということなのである。
 磯崎さん、日本の建築思想を背負うって大変なことなんですね。今後は、若い世代が、堀口捨己〜村野藤吾〜磯崎新という解読をしてくれることでしょう。重野哲寛さんも亡くなられたこと、磯崎さんの痛む腰をいたわる医師は、これからは複数に、非線形に拡大するしかありません。
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by j-sense | 2007-09-16 12:20 | □日本的なるもの
関西無常文化総合研究所
氏 名 :やすだ じゅん 
生年月日:1967年5月19日 
現住所 :京都市  職 業 :表向き会社員

日本的なるもの1

 哲学の道から東へ少しきつめの坂を登ると、鹿ヶ谷とよばらる一帯に出る。鹿ヶ谷の森は静かに、そして鬱蒼と繁り、法然院の静寂を演出している。その法然院の参道に沿って歩くと墓地に入る。この墓地には名士とされる人々の墓が多く、京都をこよなく愛した作家、谷崎潤一郎の墓もここにある。谷崎ファンの墓参が今も絶えない。 
 その谷崎の墓のそばに瀟洒で格調のある墓が建っている。「九鬼周造之墓」墓碑名には西田幾多朗によって書かれたもので、その側面にも西田によって訳されたゲーテに詩が一句彫られている。
 「見はるかす 山の頂 梢には 風も動かず 鳥も鳴かず まてしばし 汝も休はん」
 何の衒いもなくたたずむその墓は、参る者に不思議な透明感を与える。 
 九鬼周造。『「いき」の構造』や『偶然性の問題』などで知られる異色の哲学者である。大正から昭和初期にかけてヨーロッパを遊学し、ヨーロッパで最先端の方法論を高い水準で理解し、「日本的なるもの」を考え続けた人。後は近代日本をその身をもって生きたのである。 
 そんな九鬼の哲学は二元世界といわれる。東洋と西洋。江戸とパリ。東京と京都。偶然と必然。禁欲と享楽。そして、男と女。彼はその間にすべり込み、軽やかに自らの哲学を展開した。観念論であろうとマルクス主義であろうと弁証法が哲学の中心であった当時の日本にあって、そのスタイルがかなり異色であることは肯首できよう。 
 その九鬼が法然院に葬られている。これは彼自身の遺言によるものである。ここに九鬼自身の精神史におけるスリリングな展開が想像できる。 
 彼は若き日から死に至るまで、ヨーロッパの詩歌における「押韻」と同様、日本の現代詩歌における「押韻」について考え続けた。しかし、その試みは日本語にどこまでも違和感を残し、結局現代詩に押韻を基礎づけることに失敗してしまった。その彼が死に際して浄土教に身をゆだねたのである。 
 鈴木大拙に従えば、外国からの輸入物ではじめて日本的霊性を表現しえたのは禅と浄土教である。本来、浄土教は此岸にありながら念仏を唱えることで彼岸を想う密教的営みをさす。しかし、法然が浄土の冥想から念仏者の主体へ問題を転換した時、浄土教は日本的となったのである。 
 ところが、中沢新一の説くところによれば、禅と浄土教以後、「日本的なるもの」を表現しうる思想的輸入物がみあたらない。マルクス主義もアメリカニズムも日本的となりえず、そのままマルクスやヤンキーであり続けたのである。九鬼はその「日本的なるもの」の課題に挑み、挫折し、そして日本人として再び浄土教に出会ったのだ。日本的なるものの可能性はついえたか否か、九鬼の墓はそう問いかける。 
 九鬼周造と浄土教。不思議な取り合わせだが、重要な意味を持っている。

日本的なるもの2 

 日本人が示す美意識を探っていくと、その時代でいろいろな相貌を見せてくれて、非常に楽しいものがある。そして、それ以上に楽しいのは、美意識が日本人の思想を鍛え上げる瞬間が垣間見られるときである。例えば、茶の道を通して「生き方」を示した千利休などはその良い例であろう。しかし、今回は文芸の領域から越境していった二人、本居宣長と松尾芭蕉をダシにそのことを示してみたい。 
 本居宣長が中国の思想というものをひどく嫌っていたことは広く知られているところである。彼には中国の思想家は「さかしらをのみ常にいひありく国の人」で、人の情をいつわってまでも大げさで仰々しい概念を作りだし、やたらに「こちたく、むつかしげなる事」をふりまわす人として映っていた。つまり、中国の思想はあまりに概念的、抽象的思惟でありすぎて、事物にじかに触れる、生々しい思想ではないと宣長は判断しているのである。 
 では、それに対して事物にじかに触れる認識方法を宣長はどう説くか。世に有名な「もののあはれ」がそれである。「もののあはれ」を知るとは、「何事にまれ、感ずべき事にあたりて、感ずべき心をしりて、感ずる」ことをいう。生きた事物を自然で素朴な実存的感動を通じて深く心に感じるのである。そして、「たとえば、うれしかるべき事にあひて、うれしく思ふは、そのうれしかるべき事の心をわきまへしる故にうれしき也。(中略)されば事にふれて、そのうれしくかなしき事の心をわきまへしるを、物のあはれをしるという也」要するに「物の心をしる」のである。しかし、事物に接し、「ああ、はれ」と情(こころ)が感(うご)くことを絶対視したこの認識論は、事物を何の媒介もなく一挙に直接把握する方法を示し得た点では評価できようが、事物それ自体は永遠不変であることが大前提になっているところに疑問が生ずる。あくまで感くのは情であって、事物は事物そのものでしかない。つまり、美とよばれるものは伝統的に決まっており、その形は永遠不変だというのである。 
 しかし、そんなことがありえるのだろうか。実際、我々の感覚から言えば、美には流行(モード)があり、その時代、その風潮によって大きく左右されているように感じられる。そして、その感覚からくる疑問は拭い難いもののように思われるのである。
  夏草や兵どもが夢の跡
 こう詠むことができた松尾芭蕉は現前する事物が永遠不変でないことを自覚していた。芭蕉の場合、「をのれが心をせめて、物の実しる事」と一見宣長に似た主張をするのだが、きりかえして次のようにもいう。「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」そして「その境に入って、物のさめざるうちに取りて姿を究」めなければならないのである。美はその姿を不変に示し続けるのではなくて、たった一瞬の、ひらめく存在開示なのである。そこでは、いつ美が輝くか、どれが美であるか、微に入り注視する必要があり、その一瞬の輝きを表現する詩的言語の訓練が必要になってくる。そして、芭蕉はその方法論として旅に暮らし続けることを選んだのである。時間をかけ、自ら移動し、スケッチするように言葉を紡いでいくその方法論は、美の多様性に素早く反応することができ、さまざな表現を示すことができる。そのフットワークのよさは注目に値する。 
 ときに日本的なるものということは、沈潜する思考をイメージされることが多い。禅者がもつイメージが横滑りしているのだろう。しかし、日本の思想的可能性は芭蕉のようなフットワークの軽さを示すこともある。もちろん、役行者や空海といった山岳修験者のフットワークのよさは気づかれているが、彼ら山岳修験者もやっと仏教学や宗教学という狭い枠から抜け出たところで、まだまだこれから新しい研究が待たれるものである。そして、「日本的なるもの」のフットワークのよさが「風狂」という芸術的な姿として芭蕉に現れたことにももっと注目していってもよいのではないだろうか。

日本的なるもの3

 「個人あって経験があるのではなく、経験があって個人あるのである。」 
 こう言われて困惑を覚えずにいられるだろうか。西田幾多郎の著作を読む者は、この種の困惑を常に経験していかざるをえない。なぜなら、常識と考えられる思考はおろか、日本語の文法が破壊されているからである。経験があって個人があるだって!? 冗談じゃない! 気が狂ってしまいそうだ! 
 一般に西田の難解さには定評がある。有名な『善の研究』などはまだましな方である。膨大な量の論文集などは、何頁にも渡って何が書いてあるのか分からないことは屡々であり、時には論文で扱われているはずの主題がまったく出てこないまま、混乱に叩き落とされることもある。いったい何がここまで混乱せしめるのだろう。 
 和辻哲郎が語ったように、日本語で哲学することは非常に難しい。これは西洋哲学を専門とする者が遅かれ早かれ実感することである。そこで和辻や九鬼周造などは、己の詩的才能を導入することで、その問題の解決を試みた。つまり、あきらめた、のである。したがって、彼らの著作は読みやすく、一種文学的風雅が漂っている。 
 しかし、西田は違った。彼の思い詰める性格も手伝って、何がなんでも日本語で哲学しようとしたのだ。それも、大胆な造語を行なったのである。いや、造語をするのはまだいい。西田の場合、カント哲学を下敷に造語がなされたところに悲劇がある。カントの著作をドイツ語で、いや、翻訳でいい、読まれたことのある方にはお分かりいただけるかと思うが、その専門用語のオンパレードには少々辟易とさせられる。又、カントの書く一文がとにかく長いことも有名である。しかし、カントは思考されたものは一旦整理して書く性格であったので、じっくり読めば分からないものではない。 
 明治の終わり頃、新カント派の哲学がアカデミズムを席巻しはじめたことも手伝って、西田もカント哲学の枠組みで思索することになったのだが、彼の場合、その枠組みの乗り越えが主題とされたのである。したがって、その道ゆきは、日本人には少々難解な専門用語の中で、ものの見方の変更を迫っていくこととなる。 
 カント哲学では、我々人間の主観がどのように物自体を認識するかが問題となっており、結果、物自体は認識しえず、主観が物自体の諸現象を構成するのみとされる。いわば、人間の認識能力を限定づけると同時に、人間の自我の働きを基礎づけた。しかし、認識能力の限定がなされているものの、その自我の働きが持っている独断性は否定されえない。そして、認識以前の物自体はいったいどうなるのか疑問の残るところである。 
 これに対して西田はこう言う。 
「既に知識は或る立場からの構成であるとすれば、与えられた或物がなければならぬ。是において物自体とは知識の原因という如きものではなくして、概念的知識以前に与えられた直接経験という如きものとならねばならぬ。」 
 この経験を西田は「純粋経験」と呼び、冒頭の言葉につながっていくのである。 
 カントの場合、精神(主観)と物体(客観)とは互いに全く違う法則性をもつものとされている(物心二元論)が、西田の場合、主客未分の直接的な経験の立場から、精神と物体は同じもので、その見方によって精神や物体となって立ち現われるとされる。この西田の立場は、論理的にいけば何をいっているかさっぱり分からないが、日本人の普段の生活を考えると、時折感じる何かを言い当てようとしてとしているように観じられないだろうか。例えば、松を見たときの何か、川の流れに眼を奪われたときの何か、鼓の一打を聴いたときの何か。その何かの直観が西田にはあったのではないだろうか。(もちろん、西田自身の参禅も見逃せないだろう。) 
 西田はこの直観を文学的表現で言い表わすのでなく、ヨーロッパの思想によって鍛えた日本語の文法をもって表わそうとしたのである。しかし、その試みが西田の文章を難解にしている。 
 「物来たって我を照らす。」 
 「生きると云うことは、客観的制作にあるのである。我々の生命が身体的と考へられる所以である。」 
 「相対が絶対に対するという時、そこには死がなければならない。我々の自己は、ただ、死によってのみ、逆対応的に神に接するのである。」 
 こうした文章は、やはり難解と言わざるをえない。 
 しかし、読み手が自らの問題を持って読むとき、これら難渋な文章が輝きを持って立ち現われるのである。構造主義のパッションをうけて、今、西田が世界で読まれはじめている。この世界性が「日本的なるもの」の思想的可能性の一表現である。三木清は「西田哲学と根本的に対質するのでなければ将来の日本の新しい哲学は生まれてくることができないように思われます。」と言う。その言葉を励みとしつつ、一方で脅迫感じながら、西田の論文集を眼の前にして、私は腕組みをしたまま動けないである。はたして読み続けるべきか否か・・・・・・・
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by j-sense | 2007-09-16 11:55 | □日本的なるもの
[ 2007年9月12日 ]住宅コンサルタント 平賀 功一氏

 自民党は今年6月、超長期住宅の実現を目指す「200年住宅ビジョン」を策定・公表した。その内容は「環境負荷と住宅コストの軽減」「流通市場の改革」「新たな住宅金融システムの構築」など、12の政策提言から構成されており、安倍政権が掲げる“美しい国づくり”へ向け、住宅システムの再構築が進められることとなった。しかし一方では、従来からある議論の寄せ集めにすぎず、目新しさに欠けるとの指摘もある。はたして、200年住宅は誕生するのか、同政策の内容を検証してみる。

■「ワーキングプア」ならぬ「マイホームプア」な日本の住宅環境
 「日本の住宅は貧しい」……こう言われるようになって、一体どれくらいの年月がたつのだろうか? 「犬小屋」と揶揄(やゆ)される居住面積の狭さ、住宅ローンを返し終わったと思ったら建て替え時期を迎える短命な住宅寿命、さらに、一人暮らし老人の孤独死や経年マンションのスラム化など、“貧しさ”を象徴する事例は枚挙にいとまがない。GDP世界第2位の経済大国が抱える住宅事情の貧しさは、これほどまでに根の深いものとなっている。

 そこで、こうした現状を打開すべく06年6月に住生活基本法が施行、超長期にわたって循環利用できる質の高い住宅ストック(=200年住宅)の形成が政策理念として打ち出された。“マイホームプア”からの脱却が、ようやく具体的な目標となったのだ。実は今回、策定された「200年住宅ビジョン」もその中身は住生活基本法を踏襲している。以下、「200年住宅ビジョン」の中身を順を追って見ていくことにしよう。

■200年住宅ビジョン 12の政策提言
<提言1> 超長期住宅ガイドラインの策定

 一口に「住宅」といっても関連する産業は幅広い。そのため、各業界が単独で200年住宅を目指しても、行き着く先には限界が見えてしまう。そこで、建築・維持管理・流通にかかわるシステムを連携した一体の社会システムとして再構築する必要が叫ばれており、そのためには国民・住宅関連事業者・国・地方公共団体などが200年住宅に対するイメージを共有することが不可欠となった。そこで、超長期住宅に関するガイドラインを策定することで、目指すべき方向性を統一しておこうという狙いだ。

<提言2> 家歴書の整備

 家歴書とは、新築時の設計図書や修繕履歴・定期点検の結果などを記録した履歴簿のことをいう。情報の蓄積により、リフォームあるいは点検・交換が適切に行なわれることが期待され、また、家歴書の整備により使用建材や設備・施工業者名などもデータベース化されるため、災害あるいは事故が発生した際、迅速な対応が可能となるメリットもある。

<提言3> 分譲マンションに対して、新たな管理方式・権利設定方式を構築する

 現在、分譲マンションを取り巻く環境は芳しくなく、経年にともなう建物の老朽化、居住者の高齢化・賃貸化といった多くの課題を抱えている。そのため、管理組合運営が正常に機能せず、適切な維持管理が十分に行えない状況に直面している。そこで、管理組合の理事長を管理者とする現在の管理方式に加え、マンション管理業者を管理者とする管理方式を新設。知識も経験も豊富な管理業者主導による新方式を取り入れることで、直面する課題に対処できるセーフティーネットを構築する。

<提言4> リフォーム支援体制の整備、長期修繕計画等の策定、リフォームローンの充実

 建物を長持ちさせるためには、適時・適切なリフォームや大規模修繕が欠かせない。そこで、インターネットによる情報提供や相談窓口を設け、消費者が安心してリフォームや修繕が行えるように、支援体制面・融資面での基盤整備を行なう。

<提言5> 既存住宅の性能・品質に関する情報提供の充実

 これまでにも品確法による既存住宅の性能評価、あるいは民間の検査機関による独自の性能評価制度はあった。しかし、その精度にはバラツキがあり、必ずしも客観性を伴った内容ではなかった。そこで、簡便かつ一定の客観性を担保した「既存住宅の評価ガイドライン」を策定し、買い主が安心して住宅を購入できる流通システムを確立。もって、中古住宅市場の活性化を目指す。

<提言6> 既存住宅の取り引きに関する情報提供の充実

 日本の住宅政策は、これまで「新築住宅」主導で行なわれてきた。そのため、中古住宅の情報提供は二の次とされてしまい、そのことが既存住宅の流通規模を縮小させる要因となっていた。そこで、取引価格を中心に情報提供を積極化して、価格形成の透明性を確保し、中古住宅の売り主・買い主どちらにも“やさしい”流通システムの充実を図る。

<提言7> 住み替え・二地域居住の支援体制の整備、住み替えを支援する住宅ローンの枠組み整備

 マイホームに対する価値観やライフスタイルが変化したことで、個人の居住ニーズも多様化した。郊外の庭付き一戸建てをゴールとする“住宅すごろく”は、必ずしも万人に当てはまらなくなった。そこで、柔軟な住み替えや二地域居住(都心と田舎にそれぞれ自宅を所有して行き来する居住形態)を支援する仕組みが新たに必要となり、就労に関する情報提供あるいは住み替えを円滑化させる新型住宅ローンを整備し、多様化する住宅ニーズに対応できるよう準備を進める。

<提言8> スケルトン・インフィル住宅を支援するための住宅金融などの枠組み整備

 スケルトン・インフィル住宅とは、建物の躯体(くたい=S:スケルトン)と内装(I:インフィル)を分離した設計構造の住宅をいう。マッチ箱をイメージすると分かりやすいだろう。このSI住宅、200年住み続けられるだけの構造的要件は兼ね備えているが、他方、200年の間に所有者が何人も変わることを考えると、住宅ローンの組み方も従来のままでは対応不十分となることが想定される。そこで、SI住宅にふさわしい住宅金融のあり方が模索されており、これまでとは異なったユニークな住宅ローンの検討が必要となっている。

<提言9> リバース・モーゲージが提供される仕組みの構築

 リバース・モーゲージとは、マイホームを担保に融資を受け、借入者の死亡時に当該住宅を処分・換金して残債を一括返済するローンのこと。200年住宅が普及すれば、住宅の所有者が住宅より短命になることは十分想定される。そこで、高齢になっても安心して住み続けられるよう、新たな収入源を確保する手段としてリバース・モーゲージの活用を積極化していく考えだ。

<提言10> 200年住宅における税負担の軽減

 住宅は生活の基盤だけに、税負担は無理のない範囲での課税であることが望ましい。そこで今後、「社会的資産」となる200年住宅の税負担に関し、住宅税制全般に立ち返ってその在り方を整理・検討するものとする。

<提言11> 200年住宅の実現・普及に向けた先導的モデル事業の実施

 日本の住宅市場において、200年住宅はこれまで経験したことのない新たな試みとなる。それだけに、一般普及への実現性を事前に検証しておく必要がある。そこで、テスト的な意味合いで先導的モデルプロジェクトを実施し、200年住宅ビジョン成功への道筋をつける。

<提言12> 良好な街並みの形成・維持

 マイホームは、その地域との調和・共生なくしては存在しない。200年間も住宅価値を持続させるためには、なおさらだ。そこで、良好な街並みの形成・維持には官民一体による取り組みが欠かせず、各種の規制・誘導制度が必要となる。今後、そのための基盤整備を提言し、枠組みの確立を目指す。

■価格形成プロセスの透明化・情報公開化が必要不可欠
 以上、12の提言を順に説明した。「環境への配慮」「建築システム」「住宅流通」「維持管理」「住宅金融」「基盤整備・街並み」といったポイントを一通り押さえ、全体としてまとまりのある内容に仕上がっていると感じた。しかし、「どうやれば建物を少しでも延命させることができるか?」といった視点を中心に策定されているせいか、「取得のしやすさ」という議論が不十分であるように思えてならない。生涯収入の大部分を費やさなければならないマイホーム購入において、「買いやすさ」への考慮なくして豊かな住生活の実現はあり得ない。

 ここでいう「買いやすさ」とは、価格設定が適正であるということと同時に、きちんと情報公開されていることを意味する。ようやく既存住宅はインターネットなどでも取引価格が調べられるようになったが、新築住宅に関しては今もって「販売直前まで価格未定」という状況が蔓延している。しかも、参考客には価格表の請求すら拒む。このような販売価格を“隠したがる”風土は、今後、改善されなければならないだろう。そこで、ぜひとも価格決定権を売り手側だけに温存させず、買い手側にも付与するようなモデル構築(たとえばオークション制度の導入など)を“13番目”の政策提言として追加してもらうことを願う。「質の高い住宅ストック」の条件として、「買いやすさ」を忘れてはならない。

e住まい探しドットコム(http://www.e-sumaisagashi.com/)代表
ネットを中心に公平・中立なスタンスで「失敗しない住宅選び」のための情報発信を行う。
日経住宅サーチ「マンション管理サテライト」でも連載中。
ファイナンシャルプランナー 宅地建物取引主任者
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by j-sense | 2007-09-16 11:24 | □300年住宅
■j-sense札幌
・丸谷博男/建築設計エーアンドエーセントラル
(会員)
・波田野 ちさと/小林商事 
・安達政則/ケンテック
・上西敏之/(株)ゼンワールド北海道
(会員)
・金田博道/金田博道建築研究所
・関  幸夫/日本システム機器㈱(自然素材、システムエンジニアリング)
・渡部 一博、一生/北渡建設(株)

(フェローシップ)
・金川 晃/部長 札幌支社 物林株式会社
・内村 喜憲/㈱東急百貨店
・女鹿 康洋/女鹿建築設計事務所

■j-sense東京
・丸谷 博男/(株)エーアンドエーセントラル(建築設計、コンサルティング)
・朝倉 忠/(株)エム・エー(建設業・j-sense総合マネージャー)

(会員)
・松崎 高明/部長付 札幌支社 物林株式会社
・長谷川 大/株式会社リ・マインド
・本吉 正浩/社長 小林商事株式会社(建材、アイカ、住友3Mほか)
・由利 嘉充/部長 小林商事株式会社
・大嶋 洋一/部長(株)藤島建設
・塩谷 昭文/社長(株)明光建商(各種建材、防水)
・塩谷 和宏/東京所長(株)明光建商(各種建材、防水)
・宇都 正行/社長(株)栄住産業(屋上陸屋根、各種建材)
・土佐 弘/(株)ピュアウッド(環境建材)
・永井 嗣展/社長(株)ナガイ(環境建材、サッシ、ドア、一般建材)
・坂根 昇/東京所長、(株)ナガイ(環境建材、サッシ、ドア、一般建材)
・瀧澤 正/営業 日本インシュレーション株式会社
・福与 信尋/日本ルナファーザー(株)(壁紙)
・苫米地 眞人/営業部長 (株)木の繊維(ウッドファイバー)
・唐橋和男/社長 (株)サーティーフォー(住宅メーカー、ディベロップメント)
・櫻庭 高光/社長 (株)テスク(クール暖)
・城田 俊男/東京支社 (株)テスク(クール暖)
・福井・関口/営業 セメダイン株式会社(接着剤)
・小林 義孝/社長 信越ビー・アイ・ビー(株)
・笠原 圭一郎/ 株式会社CONCEPT(リフォーム会社)
・磯貝 左千夫/(株)ジェイボックス
・斎藤 陸郎/ウッドワイステクノロジー(株)
・新堀 耕司/(有)システムデザイン
・久野 幸男/社長 協立エアテック(株)
・山本 憲二/課長 協立エアテック(株)

(フェローシップ)
・瀬野 和広/瀬野 和広+設計アトリエ
・松井 郁夫/松井郁夫建築設計事務所
・和泉 正章/ケイミュー株式会社(屋根外壁材)
・田中 克彦/(株)ジャパンインポートシステム(洋酒輸入販売)
・杉原 吉直/(株)杉原商店(和紙問屋)
・桐本 泰一/桐本木工所(輪島漆、木工)
・瀬尾 純一郎/元日本銀行福岡支店長
・河原 美比古/(有)ラントマン(木と鉄の造形家、一風堂の造作)
・長谷川 武雄/長谷川陶磁器工房

■j-sense福岡
・丸谷博男/建築設計エーアンドエーセントラル

(特別会員)
・福永 博/(株)福永博建築研究所、300年住宅
・桑原 あきら/プロトハウス主宰、家づくりコンサルティング

(会員)
・安恒 寿人/(株)安恒組

(フェローシップ)
・福永 晶子/(株)福永博建築研究所、300年住宅
・茂手 象/(株)総合建築設計事務所
・馬場 洋子
・ハイダル・モハメッド・ズルフィカル/バングラデッシュの支援、NPO法人KETOY.jp
・原 吹海子/鎮信流茶道、コピーライター
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by j-sense | 2007-09-16 09:21 | □参加者の紹介
日本的なるもの4 

 関西大震災では、結局五千人を超える死者が出た。冥福を祈ると共に、被災地の一早い復興を願ってやまない。 
 その震災の大騒動にまぎれて、先日、神奈川県逗子市で一人の哲学者が亡くなった。西田幾多郎の最後の高弟、下村寅太郎である。享年92歳。老衰による死であったとのこと。世の中の大騒動をよそに、静かな大往生である。 
 下村寅太郎にはいくつかの顔がある。まず一つは、数理哲学者としての顔。元来、彼は数学者で哲学者であるライプニッツの研究が専門である。日本のライプニッツ研究は彼から始まり、彼を越える仕事を残した者はいない。現在刊行中のライプニッツ全集の監修を務めていたはずであるが・・・ 
 その次に、西田幾多郎の弟子としての顔。岩波文庫に収められている『善の研究』の解説は下村によるものである。彼は西田哲学に、西洋哲学の焼き直しではない、唯一、日本独自の哲学の姿を見てとっていた。西田の死後、西田哲学は西谷啓治によって宗教学の方向を強めていったが、私には数理的な立場に踏みとどまっている下村の方が健全であるように思われて仕方がない。 
 次に、優れたヨーロッパ研究家としての顔。『レオナルド・ダ・ヴィンチ』『アッシジの聖フランシス』『ルネッサンス的人間像』など、一般読書界にも広く知られる著書を残している。私自身、彼の著書がなければ、アッシジの小さき花に出会うことがなかった。彼はヨーロッパを普遍的な確固たるものとしてとらえるのではなく、時代的な特殊性としてとらえていた。したがって、膨大な資料を駆使しながら、時代を生き抜く人々を描き出すその筆致は、さながら歴史家のようである。特にルネサンス前後にその興味を注いでいたのは、その仕事を見ればよくわかる。彼はヨーロッパ近代が抱える重要な問題の分水嶺がルネサンスにあることを読み取っていたのである。 
 そして最後に、シンポジウム「近代の超克」出席者としての顔。昭和17年、雑誌『文学界』の呼びかけにより、「文学界」グループ、日本浪漫派、京都学派の三派から13人の知識人たちが集い、大東亜戦争の思想的意義をめぐって討論された。 
 下村も京都学派として、西谷啓治や鈴木成高などと共に、小林秀雄、河上徹太郎、亀井勝一郎等との討論に参加したのである。よく知られるように、このシンポジウムは伝説的に悪名高いものであり、戦後、何度も大東亜共栄の理論づけをしたとしてヤリ玉にあげられてきた。70年代以降、その内包する問題意識の批判的継承が唱えられ始め、一概に否定しきれないが、戦中、戦時イデオロギーとして利用されてきた事実は覆い隠せない。しかし、そのシンポジウムにおける議論たるや、何か確固たる指針を示すことなく、ヨーロッパ近代を日本原理によって乗り越えねばならない、と繰り返すのみであり、散漫で発展的とは言い難いものである。 
 こうしたシンポジウムの中で、唯一、ヨーロッパ近代が抱える科学の問題をとらえることで「近代の超克」の本質を把握していたのが、下村であった。彼は、言語や論議による論証性を旨とする古代ギリシアの科学と区別して、近代科学が実験的方法による実証性を旨とすることを指摘する。そして、その実験的方法がいわゆる魔術の精神と同一のものであることをえぐり出して見せたのだ。「自然を拷問して口を割らせる。」下村は近代科学を特徴づけてこう言ってのけたのである。こうした実験的方法を生み出す近代精神を問題にせねばならぬ、これが彼の主張であった。 
 ところが、彼の主張はたちまち横に置かれ、シンポジウムは空論を極め、その後、二度と近代科学の問題は真正面に考えられることなく戦後を迎えてしまった。むろん、戦後も科学の問題は据え置きのままであった。このことは日本思想の近代的弱点であろう。近年、ようやく日本でも近代科学の問題が議論されるようになってきたのだが。 
 こうしてみてくると、彼はヨーロッパを根本から理解しようとした人であることがわかる。そして、それは日本が明治以降、その内部に抱えることになった「近代性」をどう処理していくか、というところにつながっている。今の我々には非常に刺激的なことではないか。また一つ、大きな先達を失ってしまったようだ・・・・・ 
 

日本的なるもの5

 今年に入ってからというもの、仕事や雑事に追い回されていたせいか、このところ「隠居」というものに憧れを抱いている。お昼近くに目を覚まし、日にあたりながら縁側で庭をながめ、たまに庭をいじる。夜は夜で、適当な肴で酒をなめ、三味をチリトテチン。夜の淵に酩酊の末、入滅。この生産性のなさがなんともいえない。 
 「隠居」といっても、この社会の通念上では、年を喰えば誰でもいやがおうにも隠居とみなされる。隠居=じじ・ばばなのである。しかし、私がここで考えているのは「若隠居」。30にも満たないガキが何をいうか、と思われるだろうが、私自身、今すぐにでも隠居したいのである。隠居に年齢は関係ないのだ。 
 そこで、若隠居三年目を迎えた杉浦日向子女史が推薦する若隠居のお手本、『花暦八笑人』をひもといてみた。これに出てくる若隠居の名は佐次郎という。彼は名のある大店の長男として生まれたのだが、「生まれついての呑太郎、年中続く夕部け(二日酔いのこと)に、うくる家業もうるさしと、弟右之助に相続させ、おのれは隠居の身となりて、心のままに不忍の、池のほとりに寓居」といったあんばいである。そして、その佐次郎のもとに集まる7人の呑助どもと季節ごとの茶番を繰り広げる。特に、春の花見での茶番は「花見の仇討」という落語としても有名である。 
 とにかく、彼らは世の益にならない、本当にくだらない茶番に命を賭ける。「花見の仇討」では、花見の場で仇討の茶番を仕掛けるつもりが、勘違いして助太刀をかって出た武士に切り殺されかけたほどである。そこには殺されかけた恐怖よりも無意味な茶番のスラップスティック性が前面に出されている。ここに太平の世、刺激の少なかった江戸の余裕やおおらかさがある。 
 このおおらかさの象徴のような佐次郎は、いわば江戸という都市に住む有閑人。加えて、作者の滝亭鯉丈も江戸中期の旗本の婿養子、立派な有閑人である。つまり、どうしてもやらねばならぬ公務もなく、その日の暇を物臭に、億劫がってくらしていたのだ。 
 私は以前より、この物臭、ぐうたらが日本を特徴づけるものの一つに数えられるのではないかと考えていた。もちろん、世界的にみれば、樽の中で気ままに暮らしたディオゲネスや、自らの庭園で仲間と共に静かな悦楽を求めたエピクロスがいる。東洋にも仏教思想や老荘思想のようなある種の「ぐうたら哲学」がある。日本的ぐうたらもこの東洋的ぐうたら思想の影響を多少なりとも受けているだろう。しかし、そうした思想的影響を受け入れる基盤として、日本人の生活環境が考慮されねばなるまい。それは都市の円熟ということと深く関係しているのである。 
 『八笑人』が書かれた文政年間は、江戸という都市が経済的に整備され、情報の中心として機能し、都市として完成を極めていた。そうした都市では居・食・住が苦もなく身の回りから手に入り、今まで生きるために費やされていた生産の時間が余ってくる。都市で生活している限り、多少ゴロゴロとぐうたらをしていても、まず死ぬことがないのである。だからこそ、佐次郎は思い切った茶番をうてたのだろうし、落語に出てくるような留さん、熊さんなども物臭に暮らせたのだろう。 
 これは江戸時代に限ったことではない。室町期に「物臭太郎」というお伽草紙があるが、これも室町期に京都という都市が円熟を迎えていたことと深く関係している。谷崎潤一郎が推察するように、当時の零落した公卿が自分のぐうたらな生活を暇つぶしに書いたと考えられる。 
 今、日本は全国総都市化している。日本という国の隅々までが都市化しようとしているのだ。バブル崩壊後の地方を基盤とした経済活性、マルチメディアの整備による情報流通。江戸だ、京だ、大坂だ、という区別なく、日本人はどこにいても都市生活者である。この日本という都市の円熟がある意味楽しみである。なぜなら、その円熟と共に私も「隠居」したいからだ。しかし、その前に私自身の先立つものが・・・・・・・・

日本的なるもの6

 日本という国は何故「日本」という国なのだろう。「日本的なるもの」と題しておきながら、今までこの「日本」ということを明かにしておかなかったようである。日本の社会や文化を考えていくにあたって、そのことを示しえないのでは、論考自体に意味がない。今回その反省をもって、改めて「日本」ということについてまとめなおそうと考えた。しかし、あまりに問題が多岐に渡り、てんやわんやしてしまった。多少バタバタするが、その辺もあわせて示してみたい。 
 現在、我々の常識において日本の国を規定する場合、次の三点が主に主張される。
1、日本は四方を海に囲まれた、孤立した島国である。
2、日本は稲作によって支えられた国である。
3、日本は世界でも稀にみる単一民族の国である。
 これらの主張は、しかし、ちょっと考えてみれば大変矛盾した考え方であることが分かる。 
 まず1では、海による孤立を主張することで日本文化の独自的発展が考えられている。そして、この考えをつきつめる形で3の主張へとつながっていく。しかし、考古学、民俗学等の成果により、有史以前から列島の各地域で大陸との交流が盛んに行なわれていたことが知られるようになった。 
 環日本海沿岸の生活圏をはじめ、瀬戸内海の島じまと朝鮮半島との交流、琉球を中継点とした東シナ海文化圏など、世界の生活圏の中で日本列島は存在していたのである。つまり、1の主張のように海は大きな障壁ではなく、重要な交通路であったといえる。日本列島ではその諸生活圏の中でそれぞれの文化が発達し、互いに流通していたのである。 
 次に2。去年の米不足のおり、日本人の米に対するこだわりが非常に深いことが確認されたわけだが、その感受性=日本人となるのだろうか。一般に稲作一元論が主張される場合、「日本人の魂は稲を通じて大地の力をもらっている」といった類のことがいわれる。つまり、稲をして日本の宗教の核心を説明し、天皇家がおこなう新嘗祭が日本人にどれだけ重要かを説くのである。聖なる天皇を立てることで稲作=日本人を公式化しようとしているといえよう。 
 しかし、天皇をかつぎだすならば、供御人の存在が忘れられてはならない。供御人とは、海の幸や山の幸を直接天皇に貢献する集団のことである。網野善彦や黒田日出男などの研究で示されるように、天皇がおこなう儀式において、米が権力の分かりやすい象徴であるのに対して、海や山の初物が天皇権力の暗いマジカルな部分を受け持っていたとされる。又、そうした海民、山民の非農業集団が中世紀まで天皇家の直属軍事力として編成されていたことも注目に値する。建武の新政のとき、後醍醐天皇が悪党とよばれる非農業集団と結びついたのも、このマジカルな力を取りもどそうとしたといえる。さらに、天皇との関係を離れた後でも、この海民、山民は独自の流通経路を通じて楽市を組織するようになる。日本の都市性は彼ら抜きで語ることができない。 
 以上のように1、2をあわせて考えてみれば、3はおのずと否定されよう。事実、日本列島には、アイヌや琉球の民族が存在し、東北人を一つの民族と見る向きもある。この列島に住んでいるのが人間である以上、生活レベルで考えれば、日本は単一民族と簡単にいうことはできない。日本が単一民族であるとしてきたのは、畿内に発生した権力であり、その主張は皇国史観を構成するのにどうしても必要だったのだ。中曾根元首相の日本単一民族発言は単なる皇国史観の焼直しにすぎない。日本という国は民族によって建つ国ではない。 
 しかし、現在、我々日本人は日本列島に住むあらゆる人々にある種の均質性を感じている。この事実はぬぐい去れないものであろう。いったい、この均質性はどこからくるのだろう。 
 網野が指摘するように、それは律令制が列島の隅々まで行き渡ったことに原因する。律令制において、何よりも効力をもつものは書類であり、その書類がことあるごとに列島中に撒き散らかされるのである。 
 畿内の言葉が列島の権力空間における共通語となったことは想像に難くない。しかし、書類の文章は中国からの漢語を用いられることが多く、それだけでは役人だけの言葉で終わってしまうはずである。そこで網野は「ひらがな」の存在に注目している。 
 平安期にはいり、列島の権力空間がひとまずの安定がみられるようになると、女性の中から「ひらがな」が起こり、生活レベルでの共通言語として機能するようになったのである。「日本語」という均質性が生まれたわけだ。 
 確かに、言語を空間としてとらえることで日本の均質性を見いだすことができる。しかし、私はその「ひらがな」さえも受け入れた人々の感受性に注目したい。 
 元来、女性性という他者的なるものであるはずの「ひらがな」を受け入れることで日本という均質性を開いてしまう感受性。そう、私が「日本的なるもの」と呼ぶものは、まさにこれである。
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by j-sense | 2007-09-16 09:20 | □日本的なるもの